10億円の借金、ラジオとの出会い

 ラジオのレギュラー番組と出会う前の生島は、かなりどん底の時代を送っていた。

 1989年4月、TBSを辞め、フリーアナウンサーとして独立。38歳の決断だった。時は世にいうバブル時代。生島のフリー生活も順調に滑り出した。バブル景気を追い風に、“生島ヒロシ”というブランド力を武器にして、テレビ業界を優雅に遊泳できていた。

「大手プロダクションにお世話になる気はなかったですね。自分で好きに、自由にやりたかったので」

 生島は独立の3か月前、5つ下の弟、生島隆さん(65)に電話をかけた。「独立するから手伝ってくれないか、1年だけでいいから」

 当時、会計事務所に勤務し税理士を目指していた隆さんはこう振り返る。

1年のつもりが、結局30年以上になったけど、あとで兄貴に確認すると、『1年だけって言ったっけ?』ってすっかり忘れていました。都合のいいことも悪いことも、わりと忘れっぽいんです

のどを守るため、予防策は徹底して行う 撮影/伊藤和幸
のどを守るため、予防策は徹底して行う 撮影/伊藤和幸

 '89年4月1日に設立した『株式会社生島企画室』。現在は所属タレント約100人、社員12人の大所帯の芸能プロダクションに成長しているが、発足時は生島の個人事務所。兄弟が二人三脚で運営していた。最初の3年は2人だけだったと隆さんは言う。

4年目に、レポーターが1人2人と入ってきました。私の仕事は電話番。用件をノートにメモして、あらためて電話営業していました

 独立と同時にテレビの帯番組(月~金)の司会に抜擢されるなど、生島は瞬く間に売れっ子司会者のひとりとして数えられ、仕事の依頼はひっきりなしだった。

「局アナ時代に比べ年収は、独立1年後に10倍、2年目には20倍になった」と、右肩上がりの上昇曲線を描いていた。バブルさまさまだ。

 本業で稼いだ金を不動産に投資し、金融商品を購入。物件は値上がりし、売却した金でまた新たな物件を購入しては売りさばくという蜜の連鎖にどっぷり。だが、いずれ誰かがババをつかまされるエックスデーは確実に迫っていた。

 ……バブル崩壊。

 所有物件に買い手がつかず、月々のローンの支払いだけが生島を不安にし、生島企画室の資金繰りの首を絞め上げた。

 生きた心地のしなかった当時の心境を、生島は次のように生々しく証言する。

不動産で7億円、金融商品で3億円。トータルで10億円の借金。かみさんと弟にはすべて打ち明けていました。しのげるかな、事務所のスタッフも切らなきゃいけないかなといつも悩んでいましたね。本当につらかった。弟とよく、お互いに支え合ったなと思います。10年ぐらいかかりましたけど、完済したときは心底ホッとしましたね

 負債以上に、悪いことは重なった。独立以来、常に生島が確保していた帯番組の司会の仕事が途切れてしまったのだ。週イチのレギュラー番組はあったが、帯番組がなくなり仕事量や露出は激減した。

 生島の長男で俳優の生島勇輝さん(36)は子ども心に当時の父の変化、家の中の雰囲気を感じ取っていた。

それまでの父親は、実際に触れ合うよりテレビで見るほうが多かった。遊んだ記憶が少ないため、一緒に出かけた、何かをしたという記憶は鮮明です。映画の試写会に連れて行ってもらったり、近所の大学のグラウンドで、父と弟(俳優の生島翔さん)と一緒にキャッチボールをしましたね

 忙しいはずの父親が結構家の中にいるなぁと感じるようになったのは、バブル崩壊後のこと。勇輝さんがさらに記憶を掘り起こす。

仕事が陰っていたころだと思います。家の中でパジャマ姿の父をよく見ました。今までそんなことはなかったので覚えています。不安は耳にしませんでしたが、父の仕事がなくなっているんだなという空気は漂っていましたね