“アイドル映画の帝王”とも言われた大林宣彦監督。肺がんで亡くなって、4月10日で1年がたつ。
コロナ禍で“お別れの会”もできない中、大林さんの友人で、アカデミー賞受賞作を含む70本以上の大林作品の脚本を書いてきた石森史郎さんに最近、未亡人の恭子さんから手紙が届いた。
「一周忌は身内のみで行い、コロナが落ち着いてきたころ『お別れの会』を開きたい」そんな内容だったという。
映画スタッフは“家族”同然
もし一周忌を機にお別れの会が開かれていたら、大林作品に出演していた役者たちは、大林監督に何を伝えたかっただろうか……。
「いまだに実感がないですね。歴史上の人物になったけど、コロナ禍で人と会いにくい時代なので“実は監督は生きている”って言われても、あまり驚かないような気もしています」
そう話すのは、'07年公開の映画『22才の別れ』に出演した窪塚俊介。以来、数々の大林作品に出演。大林さんの遺作となった'20年7月公開『海辺の映画館ーキネマの玉手箱』にも出演した。
「亡くなった翌日、僕はご遺体にお会いしました。“俊ちゃん、今回もよろしくね”っていう言葉がもう聞けない現実がつらすぎて、あまり思い出さないようにしています。でも、コロナが落ち着いたら改めて、お線香をあげに行きたいですね」
大林さんは映画スタッフを“家族”同然に扱っていたと振り返る。
「とにかく愛の人ですね。人間愛、仲間愛、家族愛。その全部を見せてもらいました。現場ではハグに始まりハグに終わる。俳優に対して、とにかく優しい人でした。“大林組”ってよく言われますが、本当のファミリーでした」
'81年の『ねらわれた学園』では薬師丸ひろ子、'83年『時をかける少女』で原田知世、そして'85年『さびしんぼう』の富田靖子と、多くの女優の魅力を若手のころから開花させた。出演した誰もが、大林さんの大きな柔らかい手に包まれる握手を覚えている。
'85年の『姉妹坂』に出演した紺野美沙子もそのひとり。
「撮影に入るときと、終わったときに、いつも握手をしてくださるんです。そのときの大きくて優しい手が、今でも忘れられないです」
紺野が大林さんと初めて会ったのは、40年ほど前のこと。
「映画監督ってピリピリしている方が多かったのですが、大林監督は誰に対しても穏やか。身体が大きかったのですが、心も大きかった」
紺野が大事な思い出として記憶していることがある。
「デビュー作のプロデューサーが亡くなって、お葬式の帰り道で一緒になったとき“人は亡くなっても、残された人の中で生きているんだよ”と教えていただいた言葉は、今も私の中で大切にしています。当時の私は若かったから、それは大きな気づきになりました。実際に大林監督が、私の中でそうなりました」
3歳にして、自宅の納戸にあった映写機で遊んでいたという大林さんの映画愛は“尋常”ではなかった。
「大林監督は映像オタクでした。もう、好きで好きでしょうがないのが伝わってくるんですよ」