浅草・雷門で涙して、中ジョッキに男泣き
5年の勤務を経て、日本に帰国。茨城県の常総学院で教師を始めた。1998年、高校3年生を受け持っていた年、若山さんのクラスの生徒が朝の通学時に交通事故で亡くなってしまった。ムードメーカーであり、親しまれていた生徒の死。クラスメートも、深く悲しんでいたが、しばらくすると、「その子の分まで、自分たちが頑張らなくては」と、全員が必死になって受験勉強を始めた。
ほとんどの生徒が朝7時半に登校し、夜9時まで残って勉強する姿に、若山さんも毎日付き合った。悲しみを抱えた特別な状態で、それでもクラスが一体となって、目標に向かう生徒たち。そして、全員が、第1志望、第2志望校に現役で合格したのだ。
「このとき、同僚からは“奇跡だね”と言われました。この体験は、私には特別なものでしたし、“もう、ほかのクラスは持ちたくないな”と思ってしまったんです」
ちょうどそのころ、若山さんは両親から相談を持ちかけられていた。「退職金と、家を売却して、自分たちの理想の老人ホームを作りたいと思っているけれど、いいか」というものだった。「好きにしていいよ」と答え、当時は手伝うつもりもなかった。しかし、行政とのやりとりなどが両親の手に負えなくなってきたことと、クラスの生徒たちの卒業のタイミングとがちょうど重なり、若山さんは教師生活を終えようと決意した。
1999年、両親が思い描く老人ホームを立ち上げるため、本格的な準備が始まった。高齢者グループホームとして『さくらの家 壱番館』、デイサービスセンター『さくらの里』、障害者の就労支援施設『あすなろ学園』の、3つの小さな複合施設。2000年からは高齢の両親を支え、経営者として福祉施設を運営していくことになった。
福祉や介護を学びながらの経営。若山さんは、デイサービスセンターを視察することもあったが、実のところ、高齢者が何をするところなのかわからなかった。家族の代わりに食事や排泄、入浴のお手伝いをする施設、ということはわかったが、高齢者にとって何が楽しみとなっているのか、わからなかったのだ。
「デイサービスに来た高齢者が、どんな夢を叶えるのか」という視点が必要だと考えた若山さんは、自分の運営するデイサービスセンター『さくらの里』では、外出に力を入れることにした。1年目は近場にしたが、2年目からは浅草などへ遠出をするようになった。
「利用者の中に浅草生まれの方がいらっしゃったんです。その方は、小旅行で浅草に行ったときに、雷門の前で“死ぬまでにもう1度、浅草を見られるなんて思わなかった”と言って、ポロポロ泣き出したんです。電車で1時間の故郷にすら遊びに行けない。高齢で、車椅子であることで“あきらめるしかない”と思っていたのだと知りました」
デイサービスでは前代未聞の、みんなで夜に居酒屋に行くというイベントを開催。入居者の男性が中ジョッキのビールを飲み、「うれしい! 」と声をあげて男泣きしたこともあった。看護師が判断した飲酒許容量を超えないよう、スタッフが付き添って見守りながらの飲酒だが、中ジョッキの1杯に、感極まってしまうほど喜んだのだ。
会社勤めをしていたころ、毎晩のように飲み歩いていた男性は、定年退職後に脳梗塞を患い、夜の宴会や居酒屋に行くことは2度とないとあきらめていた。
高齢者が、最期まで人生を楽しめるように支えていきたい……。若山さんの心に、そんな決意が宿る出来事が増えていった。『さくらの里 山科』が掲げる「あきらめない福祉」「あきらめない介護」という理念は、ここからスタートしたのだ。