海外で目の当たりにした貧困と搾取

 1994年。坂本さんは、東北学院大学を卒業すると「人を守る仕事がしたい」と警備会社に就職した。最初の1年間は西新宿・副都心のビルで常駐警備の業務に就き、ついで翌'95年1月17日に起こった阪神・淡路大震災でガレキだらけになった神戸市への応援警備を経験すると、'95年6月には営業課に異動した。

 人と話すのが好きな坂本さんにとって、飛び込み営業は苦にならなかった。だが、3~4年たったころ、そろそろ違う部署での仕事をと考えていたところに飛び込んできたのが、海外赴任の話だった。

警備会社時代。阪神・淡路大震災で被災した神戸にも応援警備に出向いた
警備会社時代。阪神・淡路大震災で被災した神戸にも応援警備に出向いた
【写真】坂本さんが配布するカイロに付ける「お話しを聞かせてください」のメッセージ

 

 '96年12月。南米・ペルーの日本大使館がテロリストに襲撃され、4か月以上も占拠された事件が起きた。これを機に、各国の在外公館では警備の強化が求められ、坂本さんは在ホンジュラス日本大使館への駐在が決まった。

 ホンジュラスの首都・テグシガルパ市は治安の悪さでは世界屈指。ギャング団や麻薬組織が抗争を繰り広げ、市民も多数殺害されている。会社は経験や年齢、体力などを総合判断し、坂本さんに「行かないか」と声をかけたのだ。

「不安はありました。でも見聞を広めたかったし、これを避けて通れば後悔すると思ったんです」

 '99年9月。坂本さんは中米・ホンジュラスに飛んだ。28歳だった。

 坂本さんが担当したのは大使館の警備・安全対策責任者の補佐的業務で、建物の警備強化や要人警護、公館主催イベントの警備企画立案等だ。

 休日には街を歩いた。ある日、土産物屋に入ると、きれいなロウソクが目に入った。手にとると、小さな紙で「このロウソクは、かつて売春をしていた女性たちが、違う生活で生計を立てるために作ったものです」との説明が添えられていた。確かに街を見渡せば、肌の露出の多い女性たちが道端に立っている。

 女性たちが売春にいたる理由はさまざまだ。貧困、義務教育終了前のドロップアウト、家族の麻薬依存、両親間のDVや自身へのDV……。

 坂本さんは、南米のエクアドル、ペルー、コロンビアにも出張したことがあるが、状況は似たり寄ったりだった。

「どこにも深刻な貧困がある。そこから女性たちは搾取されている」と思ったが、また同時に、「自分の手のおよぶところではないな」とも思っていた。

「売買春はないほうがいい。でも、それを止めても女性たちは生きていけない。しょうがないことなのかなと。自分にできるのは、せめて加害者にならないことだけでした」

 それが、2年を過ごしたホンジュラスから帰国するときの気持ちだった。

 帰国後、再び営業の仕事に勤しむが、2004年、ロシアの首都・モスクワに特命警備隊の隊長として駐在することが決まり、同年8月24日に赴任した。

 当時、ロシアでは航空機連続爆破や地下鉄駅での爆破などのテロが相次ぎ、大使館は、クレムリン宮殿などの観光地での長時間の滞在の自粛を要請し、女性によるサービスを提供する店への出入りも禁止した。坂本さんは、同僚には「そういう場所に遊びに行ったとの噂だけでも、人員を入れ替えるからそのつもりで」と強く言い渡した。

「語学は得意ではなかった」が、海外赴任時は現地職員と協力して警備を行ったことも
「語学は得意ではなかった」が、海外赴任時は現地職員と協力して警備を行ったことも

 このモスクワ勤務で、2年間を坂本さんと過ごした同僚の田口誠さん(40代=仮名)はこう振り返っている。

「私は当時20代。実は、仕事のこれから先に展望が見えず、最後を海外勤務で飾って辞めようとの軽い気持ちで赴任したんです。

 そこで出会った坂本さんは実にストイックでした。私たちは勤務後に普通の飲食店くらいには行きましたが、彼はそういう場所にも行かない。理由を尋ねると“責任者だから”と。非常時への緊急対応をひとりで担ってくれたんですね。彼を嫌いになる社員はいませんでした

 坂本さんは決してどならない。でも、業務報告で自身のミスを隠そうと嘘の報告をした社員には毅然と叱った。

「後日知りますが、坂本さんはチェルノブイリの原発事故で被ばくしたベラルーシの子どもに、里親として生活資金などを送る寄付活動もしていた。ロシアをはじめ旧ソ連地域の貧困も見ていたんですね」(田口さん)