ラジオをきっかけに、曲は大ヒット。突然のブレイクにプレッシャーはなかった?
「いちばんプレッシャーを感じていたのは、ラジオですごく話題になって、メディアにひっきりなしに出ていた時期です。5年間注目されたことがなかったので、“なんだこれは!”と思っていました。リリースの1週間くらい前には、多くの新聞やワイドショーで取り上げていただいて、1日中テレビの取材を受けた日がありました。その日に“世間の期待に応えられるかな”と怖くなってしまったんです」
重圧に打ち勝てたのは、小学生のころからの習慣“日記を書くこと”のおかげだという。
「そのときも、不安に押しつぶされそうな気持ちを書きました。書いていくうちに、今までやってきたことを今後も一生懸命やっていけばいいんだから、そこにプレッシャーはないと思えたんです」
家族との絆を描いた『トイレの神様』だが、ヒット後、植村と家族との関係は……。
「これといった変化はなかったですね。8歳のときに歌手になると決めて生きてきたんですが、母からは“頑張れ”とも“やめなさい”とも言われてこなかったんです。紅白歌合戦のときも、いちばんの親孝行になると思っていたのですが、そうでもなかったようで……。
母を関西から東京に呼んでNHKホールで直接見てもらい、私の家に先に帰ってもらっていたんですが、夜中に帰宅した私にかけた第一声が“暖房のつけ方がわからへんねんけど”だったんです。さすがに“おめでとう”とか“よくやったね”とかの言葉がくるかなと思っていたんですけどね(笑)。その後も普通の会話だけでした」
アメリカで迎えた人生の転機
ヒットの翌年、NHKのドキュメンタリー番組でアメリカ・テネシー州のナッシュビルという町を訪れたとき、人生の転機を迎える。
「ライブハウスに行き、オープンマイクというオーディションのようなものに参加しました。私は、全編日本語の『ミルクティー』という曲を歌ったんですが、地元の方から言われたことに衝撃を受けて。ほとんどの方が“歌も上手だし曲はいいけど、日本語で歌っているから何を歌っているかわからない。英語で歌えばいいのに”と言われたんです」
これまでも洋楽を聞くことはあったが、訳詞を読んでも意味がよくわからないため、感動することはなかった。
「だから勝手に、アメリカの音楽はメロディーやサウンドを重視して歌詞に重きを置いていない文化なんだと思っていました。スタッフさんにそれを伝えたら“日本語には日本語にしかない表現があるように、英語には英語にしかできない表現がある”と言われたんです。言葉は自分で理解することがすごく重要なんだと思って、英語に興味を持ち、自分で理解したいと思うようになりました」
ナッシュビルでは、価値観を覆す出会いも。
「地元の大御所のカントリーミュージシャンの方とお話しする機会がありました。私は家族が大事で優先してきたのですが、その方に“家族はもちろん大事だけど、ときには家族をおいてでも、やりたいことをやらなきゃいけないときがある。まずは自分の幸せを考えなさい”と言われて。そんな生き方をしてもいいんだと、やりたいことを強く主張するアメリカの文化に衝撃を受けたのを覚えています。
以前から“20代のうちに今までと違うことをしておかないと、この先超えられないような壁に当たる”という漠然とした不安があったんですが、ナッシュビルに行ったときにこれだと確信しました」