5千円で手にした宝物
高校入学直前、養母との暮らしが始まった。養父を失った宗次さんは、入れ替わるようにもうひとつ、心打たれる出会いがあった。クラシック音楽である。
「養母はとある会社の社員寮で賄いさんをしていてね。そんな母と同居するようになって初めて電灯のもとでの生活が始まりました。そんな高校1年の6月のことです」
入学以来、毎朝登校前に働いていた豆腐屋さんのバイト代で、同級生からテープレコーダーを買い取ったのだ。月々千円払いの5千円で手にした初めての宝物だった。
その日は部活後、飛ぶようにして帰宅、歌謡曲でもやっていないかと養母が手に入れた中古テレビをつけたがやっていない。NHKをつけてみると、教育テレビでNHK交響楽団が演奏していた。
「それを録音して寝て。翌朝、目が覚めるとすぐに再生ボタンを押して、2曲目に流れたのがメンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲ホ短調』。いまでもね、しばしば冒頭から涙が出てきますよ。
あのとき、テープレコーダーを買わなかったら。あるいは録音したとき、流れていたのが歌謡曲だったりメンデルスゾーンでなかったら。絶対、クラシックとは縁がなかったと思いますよ」
翌日から、全楽章を聴いてから当校するのが日課となっていた。
1967年、高校卒業後は、新聞の求人広告で見つけた不動産仲介会社に入社した。
コツコツとシケモクならぬ不動産情報を集め、“喜んでもらえることを一生懸命にやる”姿勢が功を奏したのか、毎月上位の営業成績を収めるほどに。入社3年もたったころには、土地を買ってくださったお客さまに、マイホームの平面プランを描いてあげたいと思うようになった。
「それで建築を学びたいと、大和ハウス工業名古屋支店に転職することにしたんです」
不動産業から夫婦で喫茶店経営へ
「私、会社に早く行っていたんです。狭い部屋でゆっくりしていられなかったから。そこにいた営業部隊をまとめる唯一の女性事務員。それが後に妻となる直美でした」
“コピーを取って”だの、“タバコを買ってきて”やらの雑用にも気持ちよく応じてくれる笑顔が魅力的な紅一点。
「気立てがよくて、元気で明るくて。2か月後に交際を申し込んだ。本人は相当嫌だったみたいですけど、強引でした、私(笑)」
“コツコツと一生懸命”という宗次さんの姿勢は、恋愛でも変わらない。
直美さんの誕生日には、大好きなヴィバルディの『四季』のレコードに“これは僕のいちばん大好きなレコードです。春になったらドライブしましょう”と書いてプレゼント、交際が始まったという。
「デートの帰り、家に送り届ける車中で“別れよう”と言われたことがありましてね。ここで降ろしたら終わってしまうと思って、彼女の家のまわりを車でぐるぐるまわって解放しなかった(笑)」
直美さんからの結婚の条件は、100万円の貯金をすること。それをわずか半年でクリアした。1972年、大卒初任給が5万円の時代の100万円である。
同年11月、宗次さん24歳、直美さん22歳のとき、めでたく結婚。直美さんは結婚を境に退職、翌年10月には宗次さんも独立して不動産仲介会社『岩倉沿線土地』を開業し、25歳にして経営者となった。
昭和40年代といえば空前の土地ブーム。事業はスタートから順調だったという。
「1棟750万円の小さな建売住宅を、4棟売りました。4棟で3000万円、粗利は2割5分ぐらいだったから750万円。いい商売でした、売れれば、ね」
だが、物心ついてから必死に生きてきた宗次さんには、お客さまが来店するまでの暇な時間がもったいない。
「それで妻に、“喫茶店でもやって日銭が入る商売をやってみない? 不動産と喫茶店の両輪でいこう”。そう話をしたら即座に“喫茶店、やりたいわ! ”と。じゃあと知り合いの不動産屋さんに電話して、2つと見ないで“ここでいいです”と決めて、喫茶店『バッカス』を始めたんです。1973年10月1日のことでした」
名古屋市西区郊外の、住宅と工場がまじり合った地区にあるマンションの1階、17坪の喫茶店。
成功への歯車が、ゆっくりと回り始めた。