不妊治療の日々の中で探した“学びの宝”
先の見えない不妊治療の日々の中でも、アンミカはそこに“きっと何かの学びという宝がある”と信じてきた。
「私は幼少期に家が火事になったり、いろいろな不運に見舞われてきました。そんなときに教会の神父様にいただいた“神様は乗り越えられない壁をお与えにならない”という言葉が、人生の礎になっています。この出来事のどこに学びがあるのか探しながら、知恵と工夫を見つけられたら、自分の器を大きくして幸せになれると信じているんです」
“なかなか妊娠できない”焦る気持ちを抑えながら、43歳は勉強と自分を労わる年と決めた。
「漢方養生指導士の勉強をして、自分の体質を知り、体力づくりから見直し、季節に応じた食養生や漢方、鍼、灸などを始めたら、なんとAMHやFSHの数値にいい変化が出だしたんですよ」
再び、44歳から顕微授精に挑戦する。
「何度か採卵にチャレンジしたのですが、全身麻酔をして手術に挑んでも途中で排卵してしまったり、採卵後に消えてしまったり、立ち直れないほどつらい出来事が続きました。そしてやっとの思いで受精卵ができたんです」
46歳で不妊治療から卒業
しかし、またも流産してしまう。
「そういうことが何回か続いて、自分の身体は“不育症”(※2回以上流産、死産を繰り返し、子どもを持てない人のことを広く不育症という)であると理解しました。46歳で数値が悪化していき、生理がピタッと止まって、夫と話し合った結果、不妊治療からは卒業しました」
やりきれない思いを抱えていたはずだが、意外にも本人は「解放された」という。
自分の身体と心と向き合った、42歳から46歳までの4年間。その間には、仲よしのタレント仲間と「一緒に子どもをつくってママ友になろうね」と笑い合ったりもした。
「みんな次々と妊娠して、最後は私だけできなくて、だんだん集まりにも行きにくくなっていったんですよ。あのとき、私は心の底からみんなのことを喜んであげられていなかったんじゃないかと思い、気持ちを切り替えました。今では“おめでとう。遊びに行くから抱っこさせて!”と、よりよいお付き合いができるようになっています」
その心が、どんなに複雑で繊細なものなのか。彼女の夫への言葉からも伝わってくる。
「妊娠が不可能になったとき、“ごめんね、子どもを産んであげられなくて”と伝えたら、彼がすごく怒って、“結婚したときに僕が言ったこと覚えてる? その気持ちは変わらないよ”って。“子どもがいたら楽しい人生かもしれない。でも君とふたりで過ごす人生も楽しい。右も幸せ左も幸せ。誰かと比べることなく、まず自分が幸せであることが大切だよ”って」
かつて流産したとき、決して“次があるよ”などと安易な言葉をかけず、ただ黙って一緒に泣いてくれた夫だった。
「この治療があったおかげで、お互いのことを知って、絆も愛も、さらに深まった感じがします。毎日、家に帰るのが楽しいの。やっとテディに会える!って(笑)」
ここ数年はさらにうれしいニュースがあった。
「50代半ばの夫のお兄さんが、20代の奥さんと結婚して、立て続けに2人もかわいい天使を産んでくれたんですよ。私の両親はすでに他界していて、子どもを会わせてあげられなかった。そのぶん80歳を越える夫の両親の喜ぶ顔が見たかったので、もう本当にうれしくて!」
そう言うと、彼女の大きな瞳が涙でいっぱいになった。