「やさしさと情熱」が清掃の極意
新津さんは現在、空港清掃の仕上げを点検する立場であるため、実務からは離れているが、過去にテレビで放送された映像を見る限り、その徹底ぶりがうかがえる。
トイレの便器は内側まで手鏡で入念にチェックし、ゴミ箱やモニター画面の裏も確認。一見わからないようなタイルのしみも見逃さない。
そうした汚れを落とすのに欠かせないのは、材質に合った洗剤だ。会社では決まったものしか使えないため、新津さんは、展示会などでもらったサンプルを自発的に調合し、実験を重ねてオリジナル洗剤を作った。その数は80種類にも増え、社内に収納スペースがなかったため、ゴミ処理場から拾ってきた棚で作った。清掃道具も、竹を削った竹ベラを何種類も持ち、ほかの道具と合わせて50種類を使い分けている。
とにかく気になったことは自分でやってみて、開拓していくのが「新津流」だ。
新津さんと長年の友人で、仕事仲間でもあるビルメンテナンス資機材総合商社イシイの石井美由紀さん(53)は、彼女の働きぶりをこう評する。
「清掃業務に入ると姿勢がシャキッとなります。汚れを落としたいとなれば、とことんやる。土日、休日に関係なく、希望の資材や機材、洗剤がないか電話がかかってくることもありました。その熱意には頭が下がる思いです」
ここに1枚の写真がある。
ゼッケンをつけた新津さんが掃除機を手に、仕切られたコート内で清掃をしている姿が写っている。その眼差しは真剣そのものだ。周りには多数の関係者や報道陣が見守っている。
これは1997年に大阪で開催された、ビルクリーニング技能競技大会の全国大会の様子だ。新津さんがビルクリーニング技能士という国家資格を取得してから1年後のことで、彼女は見事優勝を果たすのだが、そこに至るまでには紆余曲折があった。
実は、この2か月前に東京都内で開かれた地区大会では惜しくも2位。悔し涙を流した新津さんに、
「あなたの清掃にはやさしさが足りない」
そうアドバイスをくれたのが、先の鈴木さんだった。それから全国大会までの2か月間、この恩師の指導を受けて毎日練習に励んだ。本番直前には目をつぶってでも実演できるほどに。そうした二人三脚のうえで射止めた全国大会トップの座だった。これを機に新津さんは、清掃員としてその後の人生を歩む気持ちを固め、音響機器会社で出会った日本人男性とも結婚した。
「それまでお客さまに思いやりを持って接したり、清掃道具を丁寧に扱おうと考えたことがなかったんです。生活費を稼ぐだけ、やり方を覚えるだけの“作業”だったんですね。でも鈴木さんの言葉で考え方が180度変わり、清掃の仕事を楽しいと感じられるようになりました」
清掃という仕事に対する気持ちの持ち方に、前向きな変化は生まれたが、新津さんが常々実感しているのは、日本でも中国でも、その職業に対する人々の目線だ。
例えば現場で作業をしているとき、乗客からタバコの吸い殻を投げ捨てられたこともある。
「清掃の仕事は誰でもできるよね!」
といった声もたびたび耳にする。そんなときでも、持ち前のポジティブ思考で堂々と業務に励むようにしてきた。
「社会や世間からどのように見られようと、自分がどう思うかだけを考えればいいんです。私は自信を持って仕事をやっていますから、“所詮は清掃”と思われても、どーんと大きく構えています。
清掃という仕事は自分の成長を実感できます。気持ちのいい空間になるよう、使っていただく人のことを考えながら作業をするのは、やはり楽しいです。難しい汚れを落としたときなんかは、私にしかできないんじゃないかって」
どんな逆境をもプラスにとらえ、確固たる自分を持っている新津さん。だが、仲間だけには意外な一面も見せる。
転機となった全国大会優勝からちょうど10年後の2007年。千葉・幕張メッセで開かれたグランドチャンピオン大会では、過去の優勝者によって技術が競われ、新津さんも出場した。
「優勝しかありえない」
そう意気込んでいたが、結果は選に漏れた。この様子をそばで応援し、ビデオカメラを回していた同社環境サービス部の藤本修一次長(49)は、こう振り返る。
「結果がわかったとき、泣きじゃくってどうしようもなかったのでなぐさめました。負けず嫌いなんですよ。翌日はケロッとしていましたけどね」
藤本次長は、新津さんのことを名前で「春ちゃん」と呼ぶ。同じ部署に所属をしたことはないが、気軽に声をかけ合える仲だ。新津さんの両親を交えて食事をしたこともある。彼女の人柄は「積極的で、人によく気配りができる」と言い、その仕事ぶりについてこんな評判を語った。
「私の周りにいる、元同僚の技術者に彼女のことを聞くと、技術的な力量はさておき、あの情熱や探求心には勝てないと口をそろえますね」
鈴木さんから伝授された清掃に対するやさしさ、そして情熱──。その2つの要素が両輪となって、新津さんの今を支えている。