さまざまな楽曲を歌えた理由はほかにもある。「大変な努力家だった」という。
「新曲のレコーディングの際、『あんまり勉強できませんでした』などと言いながらスタジオ入りするのですが、いざ歌い始めると、どの楽曲も完璧に自分のものにしていました」
音楽的センスも良かった。百恵さんは阿木さん、宇崎さんの楽曲で数々のヒットを飛ばしているが、2人の起用を提案したのは百恵さん自身だった。
「あるとき、私のアシスタントに対し百恵さんが『きのうの夜、(宇崎さんがリーダーの)ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを聴いたんですよ』と話したのです。それを伝え聞いた私は『なるほど、ダウンタウンの突っ張ったイメージも百恵さんには合うな』と思い、さっそく宇崎さんに連絡を入れたのでした」
あとになって酒井さんは気づいた。
「百恵さんは、阿木さんと宇崎さんに楽曲をつくってもらいたかったから、アシスタントにダウンタウンの話をしたんです。百恵さんは出しゃばるようなことをしない人でしたから、間接的に自分の考えを伝えたんですよ」
阿木・宇崎夫妻による第1弾『横須賀ストーリー』(1976年)は記録的ヒットになった。
「プロデューサーの私としては、売れてくれたら横須賀でも横浜でも良かったんですけどね(笑)」
その後、百恵さんは引退。人気絶頂時の1980年のことで、活動期間は僅か8年。まだ21歳だった。酒井さんはさぞ残念だったのではないか。
「いいえ。残念とか惜しいとかの思いは全くありませんでした。さまざまな楽曲がつくれて、プロデューサー業を満喫させてもらいましたからね。百恵さんとの仕事は実に楽しかった。だから『幸せになってほしい』という気持ちしかありませんでした」
この言葉に偽りはなかっただろう。酒井さんは誰にもやさしい人だった。だからアーチストが直接プロデュースを頼んできたこともある。8年前に62歳で亡くなった故・藤圭子さんもそうだった。
「天才だった」藤圭子さん
藤さんは1979年に1度は芸能界を引退したが、1981年に藤圭似子の名前で復帰すると、酒井さんにプロデュースを依頼した。
「すべてお任せします」
藤さんはそう言ったが、結局ヒットは出なかった。1974年に喉のポリープを切除し、魅力だったハスキーボイスが失われていたことが大きな痛手となった。
「でも天才でした。デモテープを一度聴かせるだけで、すぐに歌をおぼえてしまった。しかも絶対に音をはずさなかった。驚きましたね。類い稀なる才能の持ち主でした」
それから約8年後、藤さんの愛娘・宇多田ヒカル(38)が5歳になるころ、酒井さんは母娘とアメリカで会った。その時、藤さんが「この子は天才なのよ」としきりに訴えるので、「意外と親バカなんだな」と内心で笑っていたという。
だが、藤さんの言葉は本当だった。
「天才には天才が分かるんですね。恐れ入りました」
酒井さんはまだプロデューサー業を続け、昭和のアイドル、歌謡曲を語るつもりだった。
酒井さんの最初の大ヒットは前回の東京オリンピックと同じ1964年に発売された『愛と死をみつめて』(歌・青山和子)。このため、酒井さんは「次のオリンピックまでは頑張りますよ」と口癖のように言っていた。だが、その直前に惜しまれつつ逝った。
高堀冬彦(放送コラムニスト、ジャーナリスト)
1964年、茨城県生まれ。スポーツニッポン新聞社文化部記者(放送担当)、「サンデー毎日」(毎日新聞出版社)編集次長などを経て2019年に独立