私刑、集団リンチという意見

 今回の一件で、乙武洋匡氏は自身のツイッターで以下のようにつぶやいている。

《件の“人権軽視”発言を擁護するつもりは毛頭ありませんが、だからと言って集団リンチによる“私刑”が、他者に社会的な死をもたらす社会が健全だとは思えません。失敗から学び、再出発できるチャンスを奪うことは、それこそが人を死に追いやりかねない構造をつくり出してしまうのではないでしょうか。》

 乙武氏はその後、『DaiGoさんの炎上発言に思うこと』という記事をnoteにまとめているが、これがまた有料なので残念ながら読んでいない。

「集団リンチ」とか「私刑」の言葉の強さに思わず息をのむ。ネットの世界では、言葉がどんどん過激性を帯びていくという傾向を知っていてもなお。

 そして、和や秩序を大事にし、対立を好まない国民性によるのか、次第にDaiGo氏擁護派がチラホラと出てくる今、私は考え込んでいる。

 今から27年前、私がマレーシアで働いていたころ、職場でストーキングされたことがある。会話を交わしたこともないその職員は、目が合うと柱の陰などから避妊具をちらつかせた。上司の一人にそのことを話すと翌日から姿を見せなくなった。聞くと、「安心して。昨日でクビ」と言われ、私は慌ててしまった。「そこまでしなくてもよかったのに。つきまといさえやめてくれればよかったのに」と言うと、「アンタ、なにいってんの?」という顔をされた。

 国際的に見れば、ハラスメントもヘイトスピーチも一発アウトな国は多い。それらが一発アウトの解雇理由となり得ることは、過去ニュースを検索してもわかる。

 しかし、残念ながら、日本では明らかな暴力があっても、被害者がバッシングを受け、企業や社会が加害者に配慮するケースが未だにあとを絶たない。「ダメなものはダメ」という毅然とした態度が取れない中で、差別やハランスメントは助長されていく。「ダメなものはダメ」という姿勢は、スポンサーや企業など社会全体が取る必要があり、それによって世の中の人々にも浸透していくものなのだと思う。それは、「失敗から学び、再出発できるチャンスを奪うこと」とはイコールではない。彼が学んだあとに再出発はできるはずだし、そんな社会を作らなくてはいけない。

困窮者支援団体で学ぶことを手引きする是非

 DaiGo氏の投稿動画が炎上し、DaiGo氏側に心を痛めた人がいる。茂木健一郎氏だ。

「友人のDaiGoという人が問題になっている。話をしてあげられないか」と北九州市で長きにわたりホームレス支援の活動をして来られたNPO法人『抱樸』理事長の奥田知志氏に打診したそうである。

 謝罪動画の中でDaiGo氏が「抱樸に行く」と言ったとき、誰が手引きしたのだろう?と思った。そして、ザラッとしたものが心に残った。自分が「ホームレス=犯罪者」のように言い、そして社会から抹殺してもいいとすら匂わせた対象を支援するNPOを石鹸代わりに使って、自分の不始末を洗い流すつもりなのかと驚いた。それは不謹慎だと思ったし、どれだけ無神経なのかとも思った。

 たとえば性暴力加害者の友達が「友達が問題になっている。そちらで学ばせてやってほしい」と性暴力被害者たちが保護されている女性支援団体に連絡してきたらとどうだろう。彼の言動は、それとどこが違うのだろうか。

 とはいえ、『抱樸』理事長の奥田氏も心得ていて、守るべき人たちの安全を万全にした上で、学びたいのなら教えるという寛大な姿勢を取っており、また、「反省」という行為についても過不足のない見解を述べておられる。さすがである。私たちの気持ちも総括してくださった。