その後、ストーク・マンデビル病院には、第2次世界大戦で手足をはじめ、さまざまな機能を失った重傷兵士たちが次々と入院してきます。彼らの多くは、自分を受け入れてくれた国の人間であり、自分を追い出したナチス・ドイツと戦った、いわば命の恩人たちです。単なる医師として以上の感情が込み上げてもおかしくはないでしょう。

 彼ら重傷兵士たちを前に、グットマン医師は、こう言い放ったそうです。

「失われたものを追いかけるのではなく、残された機能を伸ばしていこう」

 そうして彼は、リハビリテーションに重きを置く方針を打ち出します。その一環として、特に力を入れたのが……スポーツでした。機能回復に有効な手段であり、何よりも楽しみながらできることが最適だと考えたのです。

 そして1948年、その成果を測るべく、院内の車いす使用患者たちを集め、アーチェリー大会を開催。その後も定期的に開かれるようになりました。このことが、ヨーロッパ各国でも報道され、1952年には、オランダの病院がこの大会への参加を打診してきます。1ヵ国でも外国の参加があれば、立派な国際大会。こうして「第1回国際ストーク・マンデビル競技大会」が開催の運びとなったのです。

 その後も近隣諸国から続々と参加を得て、競技種目数など規模も拡大。そこでグットマン医師は、オリンピックの開催地と同じ場所で「国際ストーク・マンデビル競技大会」を開けないかという構想を練ります。それに応える形で、イタリアのローマが1960年の夏季オリンピック閉幕後に、この大会の開催を決断。現在のパラリンピックのスタイルが確立されたというワケです。

パラリンピックの名付け親は?

 では、パラリンピックという名称を考え出したのは誰なのでしょう?

 大会の提唱者であるグットマン医師が1960年のローマ大会で名付けたのは「第1回国際ストーク・マンデビル車いすスポーツ大会」です。パラリンピックという名称はまだ使われていません。