被災地・大槌でパンを通じて復興支援

 2012年のこと。岸本さんはある試みの最中だった。パン屋さんを始めたい人へ腕試しの場を提供する「レンタルパン屋さん」の事業に取り組んでいたのだ。

「いろんな人がパン作りをやってみたいと声をかけてくれました。この事業が神奈川新聞に記事として掲載されたんです」

 偶然、記事を読んだひとりが、岩手県大槌町でボランティア活動を進めていた公益社団法人の田中潤さん(62)だった。田中さんが当時を振り返って、こう話す。

「事業活動の一環として、町民のみなさんに“何が必要ですか”と希望を聞いたところ、圧倒的に“焼きたてのパンが欲しい”という声が多かったんですね。そんなとき、たまたま新聞記事で岸本さんの存在を知って連絡したんです」

 パン屋さんを作って、地元の人を雇用していけば、復興にもつながるのではないかと考えたのだ。

 ただ、岸本さんによれば、

「最初、田中さんは勘違いされていた」そうだ。

パン作りの機械を大槌町にレンタルできるのでは、と思っていたそうです。僕は“それはできないんですよ”と伝えました。でも、僕も“実はベーカリーを作りたいというアイデアがあって”と言ったら、興味を持ってくださった。それで早速、連絡のあった翌週に妻と2人で大槌町に行ってみたんです」

 東日本大震災から1年を経てなお、そこはまさに「惨状」といえる状態だった。見渡す限りのガレキと土……。

「今でも当時のことを思い出すと砂ぼこりのにおいがよみがえってきます。人が並んでいたのはコンビニとパチンコ屋だけ。かつてあった街の風景が完全に失われていました」

 大槌町は津波の被害が大きく、1200人超もの犠牲者を出している。建物もすべて流され、役場もなくなってしまっていた。

 岸本さんは、大槌町で町民にヒアリングをしてみた。

「高齢者も多く、20代は少ないことがわかった。以前の仕事を尋ねると、水産会社で働いていた人などもいました。“スーパーで惣菜を作っていました”とか“揚げものをこしらえることはできる”という声もあって、僕らがマニュアルを用意すれば、パンは作れると確信したんです」

 パンの購入という日常のニーズを満たすだけではなく、「楽しさやエンターテイメントも作り出して、元気をつけていきたい」と言う田中さんに共感した。

「僕が大槌町のみなさんに喜びを提供すれば、田中さんは(パンの売買だけにとどまらない)付加価値を提供することができるんじゃないか。そう思って、僕のほうから“ぜひやらせてください”と申し出たんです」

 では、どんなパンを作るべきか。岸本さんは岩手県を回って、そのヒントを探した。

「岩手のソウルフードはコッペパンでした。子どもからお年寄りまで相手にするなら、甘いものから辛いものまでそろえなければいけない。そこに、コッペパンをぶつけるのはおもしろいと思ったんです。コロッケを挟んでもいいし、はんぺんなどの水産加工品を挟んでもいい。特産物でもいいでしょう」

 その当時、岸本さんは“パン職人は10年以上、修業しなければ実力が認められない”という業界の不文律に疑問を持っていた。

「僕は、お客様に喜んでいただくことに関していえば、10年修業した人じゃなくてもできると思っていました。製パンの知識と確固たる技能やマニュアルが存在すれば、ベテラン職人でなくてもベーカリーは作れるということを薄々感じていたんです」

 その考えをもとに準備を重ね、'13年2月、コッペパンを中心にした『モーモーハウス大槌』というパン屋さんが誕生した。

モーモーハウスは震災から3年目の年にオープン。焼きたてパンを求め行列ができた
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 大勢の町民が店に集まってくれた。ふわふわのやわらかなコッペパンだから、3歳くらいの小さな子から、歯が悪いおじいちゃん、おばあちゃんまで食べられる。

「みんなが“おいしい、おいしい”と食べてくれた。お孫さんと一緒に来たおばあちゃんが喜んでくれて、僕は田中さんたちの前で泣いちゃったんです。パンは人と人の触れ合いをつなぐんだな、と思いましたね」

 これこそがパンの魅力じゃないか──。岸本さんはそう感じた。

 人や地域とのつながりを大切に、課題にもサービス精神をもって向き合い、楽しませる。そうした岸本さんらしさは、すでに少年時代に萌芽があった。

開店に駆けつけた岸本さん(右から2人目)とスタッフたち
開店に駆けつけた岸本さん(右から2人目)とスタッフたち