トヨタ社員時代に知った「日本」
1967年、西部開拓時代の街並みを残すアメリカ内陸部のコロラド州デュランコでホーバスは生まれた。父親は厳格な人で、勉強が終わるまでテレビを見ることを許さず、ゲームも厳禁。「遊ぶなら外で身体を動かしなさい」と口酸っぱく言われていた。
バスケと運命的な出会いをしたのは、5歳のとき。体育館でシュートを決めた快感が忘れられず、のめり込んだ。そして自然とアメリカプロバスケットボール・NBAの選手になることを夢見た。
ハイスクールを卒業後、コロラドを離れ、進んだペンシルベニア州立大学でも練習に明け暮れる日々。
だが、夢をつかみかけたNBA最終テストで、最初の挫折を味わった。
「16歳で190cm、19歳で今と同じ203cmになり、選手としてもある程度のレベルに達したので、NBAに入れると確信していました。でも、まさかの不合格。バスケをやめようかとも考えましたが、徐々に別の環境でもいいからプレーしたいという気持ちが湧いてきたんです」
ポルトガル・リスボンのクラブと契約を結んだのは22歳のとき。バスケだけの生活も悪くはなかったが、仕事との両立を考えるようになり、日本リーグの強豪・トヨタ自動車(現アルバルク東京)への入社を決める。
バブル絶頂期の1990年、初来日した23歳のホーバスは東京で新生活をスタート。日中は海外マーケティング部で働き、午後からバスケの練習をする生活は刺激的だった。
「トヨタでは英語版社内報の編集に携わりました。世界中の拠点に4万部も配布されるもので、『ライフ・イン・ジャパン』というコラムも執筆しました。僕はコロラドの内陸育ちだから、魚も日本で初めて食べました。朝から魚を食べる習慣にはショックを受けましたね。骨を取るのも難しかった。寿司や海苔も最初は『なんだこれ』って感じ(笑)。今は納豆以外は全部好き。そういった日本の日常を記事にするのは楽しかったですね」
日本語習得にも熱を入れた。来日当初は1週間に1回、学校で1時間学び、さらに独学で猛勉強。瞬く間に会話ができるようになる。この日本語力が後にバスケ女子代表を指揮する強みになったことは間違いない。
トヨタには4年間在籍し、4年連続日本リーグ得点王、2年連続3ポイント王に輝くという華々しい活躍を見せた。
「日本という国は練習やミーティングが朝8時開始なら7時50分までには全員が集まりますよね。それが外国では当たり前じゃない。僕は何事もキッチリした性格なので、すごく居心地がよかった。本当に水が合いました」
NBA再挑戦の勇気をくれた女性
このころ、後に最愛の妻となる英子さんと出会い、5年間交際した。
海外志向が強く、英語やフランス語が堪能で、理想的な理解者だとホーバスは言う。
「強い、まじめ、向上心、independent(自立)した人。モチベーションをもらった」
そんな英子さんの後押しもあり、28歳で「もう一度、NBAに挑戦したい」と決意。アメリカに戻ってアトランタ・ホークスの選抜試験に参加した。3~4か月間で50人、40人、10人、5人と減っていくなかで生き残り、見事合格。
結果を真っ先に伝えたかったのは英子さんだった。
だが、NBAでの1年間は「壮絶だった」と振り返る。
「1人で部屋にいると『どうしよう』『これでいいのか』とナーバスになり、寝られなくなる日も多々ありました。ベストを尽くしたけど、2試合しか出られなかった。できる準備をすべてやり尽くしても、どうにもならないことがあるんだと知りましたね。そのとき反省しすぎるのはよくないと気づいた。『100%準備したならOKなんだ』と過去を振り返らなくなった。仮に負けたとしても、部屋に戻って鏡を見ながら『ベストを尽くしたか?』と自分に問いかけて、『イエス』と言えるなら、もう寝ていいんだと割り切った。マインドが大きく変わったんです」
世界最高峰の舞台で自らを限界まで追い込み、NBAを離れた。
'95年に英子さんと結婚すると、活躍の舞台を日本に移し、トヨタと東芝レッドサンダーズ(現川崎ブレイブサンダーズ)でプレー。2001年、現役生活にピリオドを打つ。