もしかしたら自宅の真下に空洞がまたできているのではないか──。そんな猜疑(さいぎ)心に悩まされる60代の女性住民はときおり、テーブルに耳を当てて地下の振動を確かめている。
「トンネル工事は1年中断したままですが、地下で停止中の掘削マシンはメンテナンス目的でときどき作動させているため、テーブルに反響してガーッという機械音が聞こえてくることがあるんです。寝ているときに低周波の振動を感じることもありました。地下の様子は見えないので不安は募る一方ですよ」
と、この女性住民は言う。
東京都調布市の閑静な住宅街の路面が陥没したのは昨年10月18日正午すぎのこと。路肩に長さ約5メートル×幅約3メートル×深さ約5メートルの大きな穴があき、この日から周辺住民を怖がらせることになった。
陥没原因は地下約47メートルで掘り進めていた東京外かく環状道路(東京外環)のトンネル工事。事業者の東日本高速道路(NEXCO東日本)がボーリング調査などをしたところ、周辺で地中空洞が相次いで見つかった。当初は工事との因果関係を認めなかったが、その後の有識者委員会の調査で工事によるものと結論づけられている。
NEXCO東日本は24時間態勢で周辺の道路に新たな陥没などの異変がないか監視するとともに、住民説明会を開いて事情を説明。再発防止のため掘削マシンの運用方法などを改善するとしている。
「路地が陥没していないか、腕章を巻いたスタッフがパトロールを続けていますが、当たり前の対応でしょう。もしまた陥没して子どもが穴に落ちたら、大ケガどころじゃすまないかもしれないんだから」
と近所の40代女性は憤りを隠さない。
工事再開は諦めてほしい
問題は恐怖心にとどまらない。トンネル工事に近い一部エリアは地盤を固める必要があるとして、対象となる住宅は取り壊して地盤を補修し、補修後に自宅再建して住民に戻ってもらうといった「仮移転」を提案しているからだ。
NEXCO東日本によると対象は約30戸。仮移転に伴う引っ越し費用や仮移転中の家賃、自宅再建費用などはNEXCO側が負担することになりそうだが、工期は2年程度かかるとみられており、その間の対象住民の生活は大きく変わる。愛着ある自宅をいったん壊されるおそれがあるほか、引っ越しを繰り返す負担も大きい。土地・家屋の買い取りを希望する住民の相談には応じるというから、戻ってきたときに、もとの地域コミュニティーが維持されている保証もない。
陥没から1年を迎えようとしてもなお、住民の苦悩は解消されるどころか深まっていた。
冒頭の女性住民は仮移転対象エリアに居住しており、どうしたものかと決めかねている。
「仮移転交渉は個別に始まっており、この土地に戻ってこないと決めた人もいます。対象住民だけ集めて合同説明会を開いてほしいと要望しているんですが、個別交渉が進められるばかりで、いつごろ自宅に戻れるかなど全体像が見えてこない。例えば家は取り壊さなければならないとして、育ててきた庭木はどうなるのか。先行きが見えない中で、ものすごく大きな人生の転換を迫られている感じです」(同女性)
全体像が見えないゆえに、子どもの転校や進学などで思い悩む住民もいるという。
高齢の母親を介護する50代男性は「そんな簡単に仮移転などできない」と話す。
「介護しながら移転するのは難しい。それに地盤補修をしたとしても、トンネル工事を再開したらまた陥没が起きるのではないか。工事再開は諦めてほしい。そもそもこれだけの事故を起こしながらNEXCO東日本の社長は辞任もせず、何の責任も取っていないのがおかしい。同社の社員にそう言っても黙っちゃうだけ。都合の悪いことにはダンマリで、トンネル工事をここで中止するという選択肢には触れようとしない」(同男性)
別の50代男性はこう話す。
「まず仮住まいに引っ越し、また戻ってくるために2度も引っ越すというのは現実的ではない。地盤を強固にするために薬剤を使うならば、その人体に与える影響はどうなのか。大規模事業のせいかNEXCO側の立場から物事が進んでいるが、私たちはここで暮らしているわけだから、住民の立場で物事を考えてほしい」
悩まされているのは仮移転の対象世帯だけではない。対象エリア近くに住む30代女性は自宅にヒビが入って傾き、ドアや窓がゆがんでしまったという。
「立ち入り調査で自宅損壊はすべてトンネル工事によるものと認定されました。それでもうちは仮移転対象外なんです。地盤はしっかり固めてほしい。NEXCO側とは話し合いを持ってこちらの要望を伝えていますが、3か月たっても返答がありません。すみやかにしっかりとした回答をしてほしいです」(同女性)
先の見えない陥没事故の着地点
現地取材すると、NEXCO東日本に対する不信感が想像以上に広がっていることがわかった。
同社に話を聞いた。
まず仮移転や買い取りの対象世帯はどのように線引きしたのか。
「陥没の原因究明のために地盤調査やトンネル坑内からの調査を実施し、地盤に緩みが生じているのを確認した世帯を対象としています」(同社の広報担当者)
つまり、対象世帯と自宅の近い住民が仮移転を希望したとしても、基本的には対象外になるということ。
では、対象世帯で仮移転に応じるとして、地盤補修工事のためには必ず自宅を取り壊したり、庭木などを取り除かなければならないのか。
「地盤補修については、住民のみなさまのご意向も踏まえて具体的な方法を検討していくところです。補修方法によっては住宅を取り壊させていただき更地にしたうえで、地盤補修したのちに建物を再建させていただくかたちになるかもしれません。最終的にどのような補修方法をとるかによるため、明確にすべて更地にしてしまうかどうかのご回答はできません」(同担当者)
仮移転全体のスケジュールも補修方法が決まらないと見えてこないという。いつ地盤補修工事が始まり、いつ戻って来られるかがわからない状況で住民に判断を迫るのは無茶というもの。今後の見通しについては補修方法の検討結果を踏まえて「適時適切にお知らせしていきます」(同担当者)とのことだった。
現時点で約30世帯中どの程度の世帯と仮移転や買い取りで合意しているのか。
「プライバシーの問題もあるので個別交渉状況についての回答は差し控えさせていただきます」(同担当者)
仮移転で合意した場合、引っ越し費用や仮移転中の家賃、自宅建て直しの費用などの上限はどこまで認めるのか。
「公正公平な補償を行わなければならないと考えています。不動産市場における地価の動向や損害賠償に関する複数の外部専門家の客観的意見も踏まえて適切に対応していきます。具体的な金額は言えません」(同担当者)
対象世帯のすべてが仮移転や買い取りに応じるとは限らない。交渉期限はいつまでなのか。
「仮移転や弊社買い取りなどを相談させていただきながら地盤補修方法を検討している最中なので、今後の見通しについては現時点では申し上げられません」(同担当者)
陥没事故の着地点はなかなかみえてこない。対象世帯の合同説明会を早期に開き、最新情報を共有してもらいながら、さまざまな疑問に答えたほうが住民の選択材料は増えるのではないか。お金の絡む話だけに個別交渉は必要に違いないが、同じ立場の住民から出た質問や意見が参考になることもあるはず。先を見通したくても見通しようのない住民の苦悩は察して余りある。
※初出:Webメディア『fumufumu news』(主婦と生活社)
◎取材・文/渡辺高嗣(フリージャーナリスト)
〈PROFILE〉法曹界の専門紙『法律新聞』記者を経て、夕刊紙『内外タイムス』報道部で事件、政治、行政、流行などを取材。2010年2月より『週刊女性』で社会分野担当記者として取材・執筆する。現在は『週刊女性PRIME』『fumufumu news』でも記事を担当