3時起きで440軒へ新聞配達
パックンが自分でお金を稼ぐようになったのは、わずか10歳のときだ。
「オレの原点は新聞配達です!」と断言するほど、高校卒業まで8年間も続けてきた。
「朝は5時起きで、新聞に広告をはさんで輪ゴムでとめ、専用の袋に入れることから始めます。それを、自転車のハンドルにかけて配る」
最初は身体が小さかったので44軒から始めたが、高校生になると440軒もの数をこなすようになった。
「そのころは、朝はチョー早くて3時起き。中古で車を買ったので、遠くは車で回って、近所は自転車で配ります。コロラドの住宅街は坂道が多いから、上り坂は分厚い新聞の束を積んで、力いっぱいペダルを漕ぐ。太ももなんか競輪選手くらいにパンパンになってました」
どしゃぶりの雨の日も、凍える雪の日も、土日もなく働いた。真っ暗な中、眠い目をこすり、ベッドから這い出すのが日課だった。
それでも、辞めようと思ったことは1度もない。
「新聞配達は、お母さんに頼まれたからじゃなく、自分で決めて始めたことです。それに、新聞配達は心の逃げ場だったんです。成績が落ちたり、部活で結果が出せなくても、過酷な新聞配達やってるから仕方ないって思えるじゃん。まあ結局、勉強も部活も頑張りぬいて、スゲー自信になりました。新聞配達でついた根性や責任感が、今の僕を支えているほどです」
高校時代は月に10万円ほども稼ぎ、食費以外はすべて自分で賄った。
それは、家計を助けるだけでなく、母親の人生を応援するためでもあった。
「当時、お母さんが学校の先生になるために、大学院で教育学の勉強を始めたんです。お母さんの夢をかなえるためにも経済的な負担はかけたくなかった。おかげさまで、僕が高校の最終学年になったころ、お母さん、小学校の先生として就職しました。そこから生活も安定したんです」
学び直しで生涯の仕事を手にした母親もすごいが、パックンも負けてはいない。
過酷な新聞配達を続けながら、高校を首席で卒業。世界屈指の難関、ハーバード大学合格という快挙を成し遂げた。
「実は、最初は補欠でした。繰り上がり合格したのは、“この人生”だったからです」
アメリカの大学入試は日本と違い、学科試験が占める割合は4分の1程度。ほかは、高校の成績、課外活動などを記した志願書、そして2時間にも及ぶ面接で審査される。
「まあ、嫌みに聞こえるかもしれないけど、オレ、高校時代はそんなに頑張らなくても成績よかったし、放課後は部活に没頭して、板飛び込みやビーチバレーで何度も表彰されました。
でも、そういう人はごろごろいる。僕の人生、ちょっと変だよね……。新聞配達8年続けて、いろいろハードルを乗り越えてきてさ。それを面接でアピールしたら、『この子、絶対入れろ!』って審査官の1人が猛プッシュしてくれたそうです」
まさに、貧しさをバネに合格を勝ち取ったわけだ。
大学に入学後は、比較宗教学を専攻し、寮生活を送りながら青春を謳歌した。
「トラックの運転手やバーテン、いろんなアルバイトをやってね。部活もバレーボールに演劇、合唱団では部長を務めて、友達もたくさんできた。あ、彼女もね!みんなでカナダの国境までドライブしたり、ニューヨークにも行ったな。楽しんだ分、大学の4年間は、勉強は手抜きしてたよ」
そう聞いて、さてはハーバードでは落ちこぼれ?と思いきや、「卒業のときに勲章もらいました。えーっと」とスマホで調べ、「成績の上位20%に贈られる勲章です」と、さらっと言う。
これだけ並はずれた頭脳とコミュニケーション能力の持ち主である。卒業後の進路も安定した就職先が約束された。
ところがパックンが選んだのは、ふらりと日本に行くことだった。
「冒険の旅です!役者にも興味があったし、1度しかない人生、人と違うことをやりたいじゃん」
幼なじみの親友が、文部科学省の派遣で、日本の中学校で英語を教えていたことも弾みになった。
「親友に『来るか?』って誘われて、『おう!』って二つ返事。お母さんに、1年だけ行ってきますって。それが30年近くも行ってきますになるなんてね」