マサイ人の調査は命がけ!

 世界各地を回った中でも、特に思い出深いのは、マサイ人との出会いだという。

「マサイ人は強健で、高血圧の人がいないと聞いていたので大変興味がありました。ただ、広大な範囲を遊牧しながら移動していることも多く、簡単には接触できません」

 ところが、幸運に恵まれた。

 1986年、タンザニアの田舎町で健診を行っていたときのこと。武者修行で故郷を離れたマサイの青年2人と偶然に出くわした。

「彼らが健診の様子を興味深そうに見ていたので、血圧を測ってあげると、たいそう喜んで。“これはすごい!マサイの村にも来んか”と定住する村に案内してくれたんです」

マサイ人が暮らす家は牛の尿を土に混ぜて固めたもの。衣食住に生活の知恵が詰まっている
マサイ人が暮らす家は牛の尿を土に混ぜて固めたもの。衣食住に生活の知恵が詰まっている
【写真】初めて血圧測定を受けるマサイ族

 青年たちから事情を聞いたマサイの首長は、意外にもあっさりと健診を許可した。少人数だが、血液と尿を採取して、持ち帰ることもできた。

 ところが、翌年のこと。

 調査結果を持って、再び訪問したときに問題が起きた。

「前回の調査で通訳を務めた人が、“絶対行くな、マサイの人は、あの健診のあと憤慨していた”と言うんです。なぜなら、わけのわからん日本人が、自分らの血液を採って、黙って持ち帰ったと。マサイ人にとって血は魂です。採血のあとに、親や子が死のうものなら、“あのとき魂を抜かれたせいだ!”と仇討ちされてもおかしくない。槍でひと突きされたら命はないと」

 むろん、すごすごと引き返すわけにはいかない。家森先生はよくよく考え、決死の覚悟でマサイの村に入った。

 首長は怪訝な顔で迎えた。その手には槍が握られている。恐怖で身がすくんだ。

 それでも、家森先生は果敢に話を切り出した。

「前回のマサイ人の検査結果だけでなく、世界と比較したデータを見せたんです。ひと目でわかるグラフを。それで、マサイ人は塩の摂取量が少なく、血圧の値も素晴らしいと説明しました。ピラミッド型になったグラフの頂点を指して“この山はキリマンジャロや!マサイが世界のトップ!マサイ・イズ・ナンバーワン!”と精いっぱい伝えました。そうしたら、首長がニコーッと笑って、“明日から村の全員をやれ!”と。もう、全身から力が抜けました。いやあ、うれしかったですね」

初めての血圧測定にマサイ人も興味津々
初めての血圧測定にマサイ人も興味津々

 首長も、世界のトップだと褒められて、誇らしかったに違いない。なんと愛用している槍を家森先生にプレゼントしたほどだという。

 こうして十分なサンプルを持ち帰り、分析した結果は、驚くべきものだった。

「高血圧の人はほとんどいないし、コレステロール値も低い。まさに健康体そのものでした。彼らの食生活には“塩”が存在しません。ミルクやヨーグルトを何リットルも飲んで、そこに含まれる自然の塩分を取り入れていたのです。しかも、食物繊維を補うために、“ウガリ”というトウモロコシの粉を混ぜて飲む。実に理にかなった食生活をしていました」

 しかし、強健のマサイ人は、決して長寿ではないという。

「マサイ人は、ひょうたんにミルクと牛の血を入れて飲む習慣があります。栄養満点で、女性や子どもが優先的に飲むのが掟です。お客さんやからと、私もすすめられましたが、これだけは断りました。牛の生き血を飲むと、狂牛病など感染症にかかる危険があります。マサイ人が長寿でないのは、感染症で亡くなるリスクが高いからです」

 その土地ごとに食文化をすくい上げ、丁寧に調査を続けること30年。移動距離は、地球3周分にもなった。

「調査でわかったことは、食塩の摂取量が少なく、大豆や魚、乳製品、野菜、くだもの、海藻をよく食べる地域では、脳卒中や心臓死が少ない。長寿だということです。そう、脳卒中ラットの実験と同じ結果が出たわけです」

 節目ごとに学会で発表したデータは、説得力を持って受け入れられた。

 そして、ここが家森先生らしいのだが、全国各地を回り、お世話になった人々にも報告を欠かさなかったという。

「コーヒー1杯分の会費を納めてくれた方々は調査の行方を気にかけてくれていました。きちんと報告することが、恩返しになりますから」