着せ替えをしようとお身体を拭いていた私は、お父さんの指が黒く、固いことに気づきました。
「長年たくさんの畳を作ってきた証しですね」
思わずそうつぶやくと、私の手元を見ていたご遺族も、やっとそばにきました。
「ほんとに真っ黒な手」
「手が荒れるから軍手を着けたらと何度も言ったのに……」
「この指はお兄ちゃんの指と似ているよね」
「冷たいけどお父さんの手だね」
代わる代わる、その指に触れようとご遺族が近づいてきます。そして、まるで生きているかのように触れて話しかけるのです。ご遺族の話す故人は生きていたり、亡くなっていたりします。そうして、少しずつ死という受け入れがたい事実に、折り合いをつけているように感じます。
心の整理をするお別れの時間は簡略化できない
今の時代、多くの方は「死」という出来事を遠ざけてきたためか、大切な人とのお別れの仕方を知らないように感じます。
人生の節目のお別れの場面には必ずセレモニーがあります。卒業式では一緒に過ごした友達や先生との別れを惜しんで、寄せ書きや連絡先の交換をし、写真もいっぱい撮るでしょう。好きな人の制服のボタンをもらったり(最近はしないのかな……?)、式の中では送辞や答辞を贈り合い、卒業証書を受け取りました。そうやって私たちは、次の世界へのスタートラインに立つための心の整理をしてきました。
結婚式もある意味、お別れの儀式であるといえるかもしれません。両親や兄弟、友達に、これからこの人と新しい人生と家族を作っていくという宣言です。親友の結婚式に出席するとなんとなくさみしい気持ちになるのは、別世界へ旅立つ友達とのお別れの儀式だからかもしれません。
そんな中、葬儀は簡略化の傾向にありますが、残された人がこの先を生きていくために必要な儀式だと思うのです。
葬儀をしなくていいという人に理由を尋ねると、「残された人に迷惑をかけたくない」「葬儀にお金をかけたくない」という声をよく聞きます。でも、このふたつの思いと「お別れの時間を持つ」ことは別物ではないか。大切な人がいなくなったとき、心の整理をするお別れの時間は簡略化できないものだと思うのです。