ダウンタウンとの差を痛感
「月に1本ネタを作っていて10本たまったから、事務所に提案されたんです。残念ながら10週目で負けてしまったのですが、毎週出ていたことで存在を知っていただけて、その時期お芝居を見にきてくださっていたフジテレビのプロデューサーに声をかけられて『オレたちひょうきん族』に出られることになったんです」
ビートたけしや明石家さんまなどお笑い界のトップですら、セリフがひと言というコントも珍しくなかった同番組。
「みなさん、カメラリハーサルでは手の内を明かさないんです。それがいきなり本番になると、5分のシーンが1時間くらいの収録になったりする。目を見開きながら、壮絶な駆け引きの笑いのバトルを目の当たりにして、すごい世界に来たんだと足がすくみましたし、笑うのを我慢するのが大変でした」
1989年には、東京に進出したダウンタウンのゴールデン初MC番組『全員出席!笑うんだってば』(日本テレビ系)にもレギュラー出演。
「ダウンタウンさんのトークは、当時からすごく面白かったです。私たちは台本のあるコントは割と得意ですが、おしゃべりのトレーニング不足もあって、その差を痛感させられました。ほかにも当時、舞台を中心に活動していた岸谷五朗さんと寺脇康文さんも『SET隊』というコントユニットで出演していたのですが、アクションもすごいし、ハンサムで華もあるので、共演者なのに話すたびに緊張していました」
ピンクの電話は“お笑い第3世代”に括られるが、当時は同世代を意識したことはなかったという。2人もものまね番組やロケのレポーターの仕事が中心になっていく。
「フジテレビで放送されていた『なるほど!ザ・ワールド』では月に2回のペースで海外ロケに行っていました。飛行機での移動はカメラマンさんと音声さん、ディレクターさん、そして私たち2人の5人ですることが多く、バブル期で航空会社のタイアップもあったので、全員がビジネスクラスでした」
臨月でも仕事をこなす日々
打ち合わせで苦手なものを聞かれた際、竹内が「虫ですかね」と答えると……。
「苦手なことをはずしてくれるのかと思ったら、その逆。派手なリアクションが撮れるのでやたらと虫のロケが多かったです。私は結婚・妊娠してからは、すでに決まっている海外ロケは行ってましたが、迷惑をかけるといけないので徐々に行かなくなりました」
しかし、国内での仕事は臨月までこなしていたという。
「早朝の新幹線に乗って大阪の生放送番組に出演する予定だったのが、家を出る直前に破水してしまいすぐに入院することに。テレビ欄には“臨月お笑いタレント生出演”と書かれていたのでどうしようかと思ったのですが、ちょうど臨月だった大阪在住のハイヒールモモコちゃんが代わりに出てくれて、事なきを得ました」