15歳から始まった、17年間の介護生活
ヤングケアラーの置かれた環境や抱える問題、心情はさまざまだ。冒頭のヨシミさんは多くの困難を抱えているが、家族をケアすることは、ただ「つらくて大変」な体験ばかりではない。
都内に住む宮崎成悟さん(32)は、難病の『多系統萎縮症』を患う母親を、昨年8月に亡くなるまで約17年にわたって介護してきた。(宮崎さんの「崎」は、正しくは「立さき」)
「よく笑い、鼻歌を歌いながら家事をしている母の姿を覚えています。もともと、めまいや立ちくらみがあったり、自律神経が弱かったんですが、異変に気がついたのは僕が15歳のとき。車の運転ができなくなったんです」(宮崎さん、以下同)
このころから通院の付き添いが始まった。当初は自律神経失調症と言われていたが、宮崎さんが高校2年のとき、難病と診断された。
「“治らない病気”と聞きショックでした。母も病名を知って呆然としていたので、どうにかしたいと思いました」
父や姉、弟と一緒に、母親の介護をするのが日常となった。介護をしながらも、早朝から夜遅くまで部活のバスケットボールに打ち込んだ。昼食時の弁当も宮崎さんだけ、自分で作ったものだった。
「母のためにと思って介護をしていたので、なぜ自分が? などとは思いませんでした。ケアとか介護という意識はなく、困っている母を助ける、母ができないから僕がやる、という感覚でした」
自分の時間が欲しいとも思わなかった。ただ、高3の春、部活の合宿を休んだ。
「家族に“合宿に行かないでほしい”と言われ、先生に相談し、休みました。厳しい部活だったので、周囲からサボっていると見られるのが嫌でした。それでも母の犠牲になった感覚はありませんでした」
部活を引退する時期になると、母親の病状は悪化していた。夜中のトイレの付き添いが必要になり、宮崎さんは母親の隣で眠るようになった。
「それまでは手すりにつかまってなんとか歩けましたが、できなくなりました。ただ、母のためになりたいと思っていたので、福祉系の大学を目指そうと思ったんです。そうすれば、(介護をしている)境遇を話せる環境もあるかなと思っていました」
受験勉強と介護の両立は難しかった。何かあればすぐ呼べるように、母に在宅用のナースコールを持たせていたが、勉強しようと思ったらナースコールが鳴る。
「勉強時間が減っただけでなく、精神的にもきつかった。母は“身体が痛い”“死にたい”と言っていましたが、僕にはどうにかしてあげることもできない。だんだん受験勉強をする気がなくなりました。友達との連絡も減っていった。高校卒業後の1年間がいちばんきつかったですね」
一時は進学を断念した宮崎さん。2年遅れで大学へ進学したあとも困難はつきまとった。講義と介護の両立は簡単ではない。移動時間のときも母親のことが頭から離れない。サークルに入ったものの、数回のみの参加だった。
「就職活動も大変でした。バイトができず、お金もなかったので、スーツ代や交通費を捻出するのもひと苦労で。面接にこぎつけても、介護と学業の両立は“学生時代に力を入れたこと”として見てもらえない。なかなか内定が決まらず、腹をくくり、転勤のある会社を受け地方に配属されました。そのため弟が母の介護をすることになりました」
入社から3年後、母親の容体がさらに悪化した。そのため介護離職し、宮崎さんは東京の会社に転職する。
「仕事の傍ら、難病支援のボランティアをする中でヤングケアラーという言葉を初めて知りました。介護を通して責任感や忍耐力が養われるという話を聞いて、それまで抱いていたコンプレックスが逆転したんです」
'19年、ケアラーの就職支援などをする会社をつくり、のちに一般社団法人『ヤングケアラー協会』を設立。現在は代表を務めている。
「僕は運よく“助かった”と思っています。姉や弟がいたので介護が分担可能で、大学進学も、就職もできました。しかし、そうではない当事者も少なくない」
ヤングケアラーに必要な支援は年齢や環境によって違ってくる、と宮崎さんは言う。
「例えば、介護のため学校へ行けなくなったなど支援の緊急度が高いヤングケアラーの場合、行政が支援し、福祉につなげる必要があります。さらにヤングケアラーが自立して歩んでいけるために、就職という選択肢が必要です。ただ、家族を介護している状況が企業や社会になかなか理解されていません」
また、宮崎さんは、同じ境遇の人たちが体験を分かち合う「ピアコミュニティー」の必要性も感じている。
「家族のためになりたい人を無理に介護から切り離すことはないと思います。家族に対する思いを尊重しながら、自分らしく生きられる社会を目指したい」