ローマ教皇への手紙
原発事故から時間がたつにつれ、「自主避難者」への風当たりも強くなっていった。2017年には、福島県は避難住宅の提供を打ち切った。被害が残っているにもかかわらず国も福島県も「風評被害対策」には力を入れ、原発事故は終わったかのように振る舞うことで、被害を受けた人々の口をふさいだ。
そんな中、全生さんに転機が訪れる。2018年の秋。自分の苦しみを手紙に書き、ローマ教皇に送ったのだ。
「ローマ教皇には、世界中から手紙が届くんです。だから、読んでくれたらラッキーだね、という感じでした」
美和さんも全生さんも、それほど期待はしていなかった。
その手紙が奇跡的にローマ教皇に届いた。実はこのとき、心に決めていたことがある。
「もしもローマ教皇から返事が来たら、僕は顔も名前も出して自分の思いを社会に訴えよう」と。そして、全生さんの覚悟が決まった。
2019年3月20日、バチカンで全生さんはローマ教皇に会い、思いを伝えた。その8か月後には、カトリック中央協議会主催の「東日本大震災被災者との集い」でも再会した。そのとき、全生さんは参加者の前でスピーチした。
原発事故、避難、いじめの経験、避難住宅の提供打ち切り、原発が国策であったことや国によってつくられた分断。そして、放射能汚染と被ばくの問題、さらに世界から被ばくの脅威がなくなるようともに祈ってほしいと─。
その集いが終わると、1人の青年が全生さんにくってかかった。
「“避難ができた僕らは、まだ幸せだった”とは、どういう意味だ!私は今も福島に住んでいる!」
全生さんは相手が納得するような返事ができなかった。その日、帰宅すると急性胃炎になり、39度の熱が出た。
「その人もつらい気持ちがあったのだと思う。その痛みに耳を傾けるべきだったと今でも後悔している」
と、全生さんは言う。
市井の人の分断を生んだのは国の施策だ。福島県に住み続けていても、ふとしたときに原発事故の被害を実感し、今なお回復していないと思う人もたくさんいる。「庭の山菜はあきらめたよ」「汚染水放出したら海釣りできないな」など、何げない会話に原発事故が潜む。
あるいは、はなから救済されないとあきらめ、放射能汚染を忘れようと努めた人もいる。本来は、国が汚染を矮小化せず、被害に対して十分に賠償すれば、分断もなかったはずだ。
その後も、全生さんは顔も名前も出して発信をし続けた。母・美和さんは「何度も止めていた」と話す。美和さん自身もつらい思いをし続けていた。嫌がらせなのか、車のタイヤに傷を付けられ、バーストしたことも何度かある。
「あなたまでつらい思いはしないで、と思っていました」
だが、全生さんは、話すことで世論を変え、原発事故が終わっていないことを伝えられると信じていた。
「自分と同じくらいの世代で、原発事故について発信をしている人が、当時は少なかったからやるしかないな、って」
最近は同年代の発信する仲間が増えてきたことがうれしい。だけど、「安心して話して」とは誘えないと言う。
「公の場で話してくれる人が増えたことはうれしいけれど、積極的にはすすめられない。うまく伝わらないストレスも、誹謗中傷もあるから……」
今でも胃薬を飲みながら講演をすることがある。それでもなお、全生さんは発信し続けている。この11年を生き抜いて、原発事故について思うことを聞くと、
「復興したかのような風潮に違和感があります。国がやらなくてはならないことがたくさんある中で、報道が少なくなると、解決したことのようになってしまう。だから、言い続けないといけないと思っています」
理知的な目で真っすぐにそう語る。そんな全生さんに、これからのことを聞いてみた。
「本当は、僕が話さなくていいなら、話すのが得意な人にまかせたいけど、やらないと日本が壊れてしまいそうで。原発事故のこととは別に、音楽を作ったり、3Dモデルとか、イラストを作ったり、創作系のことをやってみたい」
一方、ロシアによるウクライナ侵攻のことも全生さんは気にしていた。チェルノブイリ原発の周辺で戦闘があり、原発内部もロシア軍に占拠された。軍事行動で原発が攻撃対象となるリスクもあらためて明らかになっている。
「国の安全保障を語るとき、原発どうするの?と思います。近隣国の脅威は強調するのに原発について触れないのは、理屈が通っていない。僕は日本が好きだから、この健全ではない状態を変えなきゃ……と思っています」