「うれしさ半分、不安半分でした」
40周年を迎えたミュージシャンの稲垣潤一はデビュー当時をこう振り返る。
高校卒業後、地元の宮城県仙台市で“ハコバン”(ホテルや飲食店などで生演奏するバンド)として10年活動した。
「当時、仙台には40~50軒のバンド演奏をする店がありましたが、ハコバンは保証がない。専属契約を結んでも経営不振で店が閉まって急に仕事がなくなり古紙回収や皿洗いのバイトをした時期もありました。そんなこともしながら何とかハコバンとして生活していました」
ドラムを叩きながら歌うスタイルは、業界関係者の目に留まりプロへの道が開けた。
「ハコバン時代は洋楽、スタンダードナンバーを演奏することが多く、邦楽はあまり演奏していませんでした。当時の歌謡界についてもよく知らなかった。そういう世界に自分が飛び込むことでどうなるのか。デビューはうれしいけど浮かれた気持ちはあまりなかったですね」
上京して1年後の1982年1月に『雨のリグレット』でデビュー。シルキーヴォイスの“叩き語り”で注目された。
「レコーディングをして1月21日にデビューすると言われてもピンとこなかった。ラジオで曲がかかり、レコード店で自分のシングルが並んでいるのを確認して初めてデビューの実感をつかめました。
初めてのテレビ出演は『夜のヒットスタジオ』でしたが、歌っている途中にヘッドホンがずれたんです。片手で押さえ右手のスティック1本で叩いていました。司会の井上順さんが直してくれて最後まで歌えることができましたが、生放送だったので生きた心地がしなかった。視聴者にはインパクトがあったみたいで語り草になっています」
3枚目のシングル『ドラマティック・レイン』でブレイク、人気を決定づけた。
「ライブハウスではキャパ(収容人数)が足りないので、ホールでツアーをするようになりました。ファンに認知してもらえているのをひしひしと感じて、自信にもつながりましたね」