母のすすめもあり、6歳で民族音楽団に入団し、本格的にバンドゥーラを始める。演奏ツアーで10歳のときに初来日。その後ウクライナ国内の音楽専門学校で音楽理論などを学び、縁あって19歳のときに日本に移住した。
「子どものころは、友達と遊ぶ時間が欲しくてバンドゥーラの練習が嫌になったものでした。そのたびに母から『あなたは才能があるのだから、頑張りなさい』とたしなめられました。
日本に移住を決めたのは、10歳のころツアーで訪れて、どこの国よりも親しみやすさを感じたからです。母に決意を伝えると『あなたが決めた道なのだから』と賛成してくれました。
母がバンドゥーラを続けるように言ってくれて、日本へ来ることも応援してくれて本当によかった。そのおかげで今の私がいるし、今回は母を安全な日本に避難させることができたのですから」
バンドゥーラ奏者として活動する傍ら、日本人男性と結婚。1男の母となった。
すっかり日本になじんだものの、いつも残念だったのは、日本人があまりにも祖国・ウクライナについて知らなすぎるということ。
「『え?どこ?』『ロシアの地方なの?』などと言われてしまう。ヨーロッパのほぼ中心にあって、歴史も古く、広くて資源も豊かな国なのに。バンドゥーラの演奏を聴いてもらうのも大切だけど、日本の人たちにウクライナをもっと知ってもらおうと心に決めました」
カテリーナさんの決意は、このような現状になった今、みなが求めるものとなった。
11時間も車内で立ち続けて
ロシアとウクライナに緊張の糸が張りつめ始め、同時翻訳の仕事が増えてきた。その関係もあり、早めに不穏な空気を感じ取っていたカテリーナさんは、姉たちにも相談し、キーウでひとり暮らしをするマリヤさんを日本へ呼び寄せることを考える。
「でも母は、『そこまで大事にはならないと思うし、家から出たくない』とまったく乗り気ではありませんでした」
しかし、カテリーナさんの悪い予感は当たった。
「戦争が始まってしまいました。それからは毎日、いや数時間おきに、飛行機や爆撃の音におびえる母から連絡が来るようになりました。母の住む場所から車で10分ほどのところにあるマンションがロシア軍の標的となり、周囲の車が爆撃されたと聞いたときには、絶望を感じました」
母をなんとしてでも守りたいと思ったカテリーナさんは、実家の近くに住む旧友の男性に、母を祖国から脱出させるための手助けを頼んだ。
「彼は男性だから戦うためにキーウに残っていますが、奥さんと子どもたちをすでにポーランドへ行かせていたので、脱出のルートを知っていたのです。彼にお願いして、最後まで乗り気ではなかった母を列車に乗せてもらいました」
ポーランドへの道のりは険しかった。満員状態のため、飲食はおろか座ることができない状態で、到着まで11時間以上かかったという。そのうえ、到着した駅から避難所まで5時間歩くことに。高齢女性には過酷すぎる行程だ。
「避難所も狭く、食べ物もあまりなくてとても心細かったそうです。母は来日歴があったのでパスポートを持っていたから国外へ行くという選択肢がありましたが、多くの人たちはそういった避難所で今後どうするかを不安に思いながら過ごしているのです」
なんとかポーランドの空港までたどり着いたマリヤさんは、日本から迎えにやってきたカテリーナさんの夫と落ち合うことができ、共に日本へ渡った。