今回の広告については、掲載される広告の絵そのものには問題が少なく、作品の内容そのものに問題があるとする声が多く聞かれます。
しかし、フィクション作品の広告に対して、作品の内容にまで踏み込んだ厳しい基準を適用した場合には、例えば『新世紀エヴァンゲリオン』の旧劇場版のいくつかのシーンや、高校生と教師の恋愛をテーマにした過去の無数の作品が該当してしまい、新聞広告が打てないということが起きかねません。
あるいは、法律的には完全に逸脱した不良少年たちをヒロイックに描いた古今東西の作品たちの広告が掲載不可になるかもしれません。
昔からフィクションにしばしば登場する日本人好みの「優しく人情があり、頼りになるヤクザ」もまた、「暴力団への厳しい対応が必要だ」という理由で『アップデートされた、新しく厳しい基準』に該当するかもしれません。
そうした名作たちとは作品の内容レベルが違うのだ、という声もあるでしょう。しかし「内容を吟味して広告の掲載可否を判断する」となった場合、「その作品が名作であるかどうか、文脈によって描かれた作品であるか」を新聞社がすべてチェックした上で判断することになります。
外部の審査機関を設けるにせよ、どれほど優れた人材を登用しても、それは極めて少数の読み手による「判断」が、作品の広告という社会全体に及ぶ影響に決定権を握ることになります。
仮にそこに利権や権力の介入がなかったとしても、少数の判断に無数の表現の門番を委ねることが良い効果をもたらすとはあまり思えません。歪(ゆが)みを監視する人間の目が歪んでいないとは限らない、あるいは歪んでいない目を持つ人間などいないかもしれないからです。
歪んだ表現、歪んだ価値観で描かれた作品に対して必要なことは「この作品は歪んでいる」という批評であり、「このような形で歪んだ作品は人々の目に触れさせない」という事前の規制、禁止ではないように思えます。
表現し、そして他者から批評されることでしか、人間は自分の目の歪みに気がつくことができないからです。
そして、批判されることの多い少年雑誌の性描写のあるコミックの中にも、無意識のうちにそうした他者の価値観は影響を与えます。