坊主頭はヘタレの決意
それからお金を工面して、東京で美術大学に入った。夜は土方で学費を稼いだ。
「高い学費払ってヨ、入ってからもデッサンをさせられる。そのうちにバカバカしくなってやめた。教えられるのも好きじゃねえしな」
大学をフェードアウトしてデザインの会社に勤めた。結婚して子どももできたが、会社員が性に合わない。1年で会社を辞めて、その足で理髪店へ行って頭を剃った。
「オレが家出したのは、親父から離れて自由に好きな絵を描きたかったから。会社員になりたかったわけじゃねえ」
当時、坊主頭はファッションではなかった。道を歩けば大抵の人は目をそらす。
「頭剃るのはヤクザか坊さんと決まってた。オレはヘタレだからヨ。またゼニがなくなったら血迷うかもしれねえ。会社員に戻らねえようにって決意だよ」
30代半ばまで土方で稼ぎ、売れない絵を描き続けた。
6Bから6Hまでの鉛筆を、濃くて芯のやわらかい6Bから順に押さえつけるように塗り重ねていく。小さくなって持てなくなるまで使い切った。
「鉛の漆黒が好きだった。鉛筆なら画材も安い。絵を描くことと物語をつくること。それが自分にできる精いっぱいだったから、それをやったんだ」
絵本を描いて複数の出版社に持ち込んだが、連絡がない。
仕方がないから自費出版で絵本を3冊つくった。街で売り歩いたがまあ売れない。新宿で安酒を飲み、カツアゲされて殴られ、たまに売れた絵本の稼ぎでまた飲んだ。
そのうちの1冊の絵本『珍怪魚アニール』が、ある人物の手に渡り、声がかかる。
当時、新宿で状況劇場を主宰し、アングラ演劇の旗手と呼ばれていた唐十郎さんだ。状況劇場は根津甚八さんや小林薫さん、佐野史郎さんなどの名優を輩出している。
「次の『海の牙』って芝居のポスターを描かねえか」
1973年、31歳。そこから6年間、状況劇場でポスターを描き、舞台美術や客入れも担当した。
コピーライターの糸井重里さん(73)は数年後に新宿ゴールデン街で篠原さんと仲よくなるが、それ以前に状況劇場でその姿を目にしていた。
「坊主頭の男が棒を持って立っててね、『そこ地面が見えてるゾ。詰めろ』って言うんです。紅テントは椅子がないから客を多く入れたいんですよ。そりゃもう、コワかった」
唐十郎さんの生み出す戯曲は篠原さんを魅了した。
「俺の知らない不思議な世界だ。戯曲ができると唐さんが役者の前で読み上げる。そのイメージでオレがポスターを描く。『ポスターは紅テントの旗印。それをもとに進んでいくんだ』と言われてその気になったんだ」
一方、家庭には鬱々とした空気が漂っていた。状況劇場だけでは食っていけない。土方仕事も続けていた。絵で食っていくと腹を括ったもののうまくいかない。
「ヨメと子ども2人もいるのによ。稼ぎが足りないのはわかってた。ヨメは普通の人で、働き者だった。オレは、うまくいかねえ自分にずっとイライラしてたんだ」
小学校に入り野球をやりたいという息子に中古のグローブを買った。
あるとき、そのグローブが庭に放り出してあった。聞けば「野球をやめたい」と小さな声で言う。地元の野球チームは父親が関わらないと試合に出られないと聞いていた。つまらない慣習だった。
「やめたい?じゃあ、グローブももういらないんだな」
自分の中の衝動が抑えられず、大声を出した。気づけば息子を張り飛ばしていた。
「衝動的に息子に手をあげた。オレのいちばん嫌いな親父みたいな部分がオレの中にあったことにハッとした。これ以上一緒にいると家中が壊れてしまう」
再び1人で家を出た。最低限の家財道具と、小さくなった鉛筆を入れた箱。段ボール1つに荷物はまとまった。