『笑っていいとも!』出演秘話

「『人生はデーヤモンド』を読みました。面白かった。ぜひお会いしたい」

 フジテレビ『笑っていいとも!』の名物プロデューサー横澤彪さんから突然、電話がかかってきた。とりあえず会って軽く話をした後、銀座のクラブに連れていかれた。

「これがナ、ただ飲ませるだけじゃねえんだ。ホステスとのやりとりを見て話が面白いか確かめてるんだナ。やり手だと思ったよ。オレも偉そうに、“金が欲しいわけじゃねえ”とか“オレはマネージャーです。クマさんは家で寝てます”なんて煙に巻いて帰ったんだ」

 家に帰ると留守番電話に早速メッセージが入っていた。「横澤です。銀座でマネージャーさんにお会いしました。ご出演お願いできますか」

 篠原さんはそのころ、日雇いのアルバイトをしながら売れない絵を描き続けていた。ギャラを日払いにすること、肩書を「ゲージツ家」にすることを条件に、『笑っていいとも!』3分のコーナーのテレビ出演が始まった。

 そのキャラクターと話術はすぐに話題となり、出演番組はどんどん増えた。『ビートたけしのTVタックル』『なるほど!ザ・ワールド』『たけしの誰でもピカソ』─。テレビが元気な時代だった。

「この間、保育園の子らと土鈴を焼いたんダ。保育園の先生が教えるとドラえもんとか動物ができるんだ。でも1人だけゾウリムシ作ったやつがいてナ。おもしれえだろ。俺もそういう子どもだったヨ」 撮影/伊藤和幸
「この間、保育園の子らと土鈴を焼いたんダ。保育園の先生が教えるとドラえもんとか動物ができるんだ。でも1人だけゾウリムシ作ったやつがいてナ。おもしれえだろ。俺もそういう子どもだったヨ」 撮影/伊藤和幸
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「いろんな芸能人と共演したけど、収録以外の付き合いはほとんどなかった。テレビでゲージツ家ですって言えば目に留まって依頼が来るかもしんねえだろ。確信犯だヨ。あのころは、チヤホヤされて多少調子に乗ってたナ。でもよ、美術関係のやつらからはちっとも相手にされねえんだ」

 テレビに出るようになって2年ほどたったころのことだ。大久保通りを歩いていると、解体現場で「羊羹みたいに」バーナーで溶断される鉄を見て衝撃を受けた。厄年、42歳の夏だった。

「室蘭は製鉄の街だったから、鉄は大嫌いだったんだけど、“そうか、都市は鉄でできてんだ”と思ったんだ。バブルで街がどんどん解体されて鉄のスクラップがゴロゴロしてた。材料に困らねえ。これだと思って溶接機を買って、自転車を試しにバラバラに切って、鉄の犬をつくったんだ」

『笑っていいとも!』を皮切りにさんまやビートたけしらが司会を務める人気番組に次々出演
『笑っていいとも!』を皮切りにさんまやビートたけしらが司会を務める人気番組に次々出演

 初めての立体作品だった。スクラップでつくる彫刻に目覚め、借家から倉庫、自動車修理場と場所を移し、墨田区に工場を建てた。

 美術界から声がかからなきゃこっちから仕掛ければいい。鉄の巨大彫刻をつくるフィールドはサハラ砂漠やモンゴル草原、ダラムサラ─。世界のあちこちで彫刻をつくり映像に残す。それが発表の場だった。自ら企画を立て、テレビ局に持ち込み、番組にした。

 番組をきっかけに、あちこちから声がかかった。ミュンヘン、ミラノ、北京、ベネチア、ニューヨークでも作品を発表した。北海道から九州まで、今も国内のあちこちに巨大な鉄の彫刻がある。

 テレビ番組のギャラは海外の特番でも100万円程度。そこに材料費も含まれる。鉄は運搬や設置解体にもお金と人手がかかる。お金は回るが一向に貯まらなかった。

 隅田川のほとりに10年住んだ後、1995年に山梨の甲斐駒ヶ岳の麓に溶解炉付きの工場を建て移り住んだ。華やかに見える一方、2億円の負債は一向に減らなかった。