両親を知らずに育った幼少期
1946年、長野県諏訪市で生まれる。実母が妻子ある交際相手との間に産んだ子どもで、実父は神田で会社を経営する実業家の男性だった。
「実母は華やかな人で、当時、新橋の『フロリダ』ってダンスホールで、社交ダンスの相手役をするダンサーとして働いて、結構人気だったらしいの。最初は実父のこと好みじゃなかったようだけど、生活するのに大変な時代だったし、結婚を前提にと言われて、その気になったのね」
実父は実母に住まいを用意し、毎日訪ねてきたが、家に泊まっていくことはなかった。実母は事業が忙しいせいと気にせずにいた。ほどなくして美川さんを身ごもる。
「妊娠したと話したら、父の顔つきが変わったんだって。“そう、ふーんって、こういう顔したのよ!”って母がお芝居してみせるの。あっけらかんとした人だったから」
お腹の膨らみが増してくる中、実父は「元気な赤ちゃんが生まれるから」とピンクの容器の薬を実母に渡した。
「その場で“お飲み”と言われたけど、後で飲むからと飲まなかったのね。お腹に赤ん坊がいる母親の勘みたいなもので、その薬は捨てたの。翌日来た父は母に飲んだと告げられて、“ああ、よかった。いい赤ちゃん生まれるよ”と言ったそうよ。すごいわよね!
流産させる薬があるんですってね。でも、お腹はどんどん大きくなるし、飲んだと聞いたのに全然効かないから、父はびっくりしちゃって!パタリと来なくなっちゃったそうよ。逃げたのね」
心身共に衰弱してしまった実母に、姉は子どもがいない自分たち夫婦が面倒を見るから、信州で安心して子どもを産むようにと諭した。
「養父も私を育てることをすごく喜んでくれたんですって。でも実母は自分がこうと決めたら実行する人だから、生まれて間もない私を抱えて、実父の家に乗り込んでいったらしいの。石畳のある立派なお屋敷だったそうよ」
実父は不在で、夫人が出てきた。実母は「妻子がある方とは知らずに、結婚前提と言われたのでお付き合いを始めて、この子ができちゃったんです、申し訳ありません」と謝った。
すると夫人も「夫がこんな罪作りなことをしてごめんなさい。あなたはまだ若くてこれからの人生があるから、お互いにいがみ合うよりも、夫と別れてほしい」と頭を下げたという。
「もらった慰謝料を半分お姉さんにあげて、お姉さんのもとで私は育ったの。実母はその後、結核を患って、信州で療養した後、また東京に戻ったのよ」
東京新橋に住む姉夫婦に引き取られたのは2歳のときだ。思春期までそんな事情があるとは夢にも思わず育った。
「裕福じゃなかったけど、家にはお手伝いさんがいて、養父は書道の先生をしていたの。ところが知人の借金のせいで差し押さえにあって。赤紙が貼られた家財を触っちゃダメって言われたことを覚えているわ」
養父は美川さんが小学校低学年のときに脳溢血で亡くなる。養母は180度生活を転換。昼は保険の外交をし、夜は料亭の仲居をするなどして、借金を返済しながら、美川さんを必死に育てた。
「中学1年のとき、隣に住むおばさんに、“あんたの本当のお母さんは、叔母ちゃんなのよ”と言われて。この人何言ってんだろう?と思ったけど、ショックじゃなかった。実母も私をかわいがってくれていて、幼稚園の運動会では、おしとやかだった養母の代わりに私をおぶって一生懸命走ったりしてくれたから。そのとき、実の母も苦労してやってきたんだろうなって子ども心に感じたわ」
やがて2人の母から前述の秘密が語られ、すべてを受け止めた。
「実母から、あんたは本当ならこの世に出なかった子なのよってよく言われたのよ。実の子によく言うと思わない?流されていたはずなのに生まれたんだから、運が強い子なのよって。だからね、何か壁にぶち当たるたびに、この言葉を思い出して、私のエネルギーにしてきたの」
2人の母に、お金に不自由のない暮らしをさせてやりたいという思いが、美川さんを芸能界へと突き動かす。