スーツは飛ぶように売れるも経営難
飲食店では高い酒が次々に注文され、オーダースーツも飛ぶように売れた─。
「ですが父はアメリカ兵からの注文は頑なに受けていなかったんです。アメリカ人はずっとここにいるわけじゃないですし、兵隊を中心に商売をすれば先がないと思っていました。だからほかの店は儲けていたんですがうちの経営は厳しかったようです」
そして沖縄は日本本土復帰を迎える─。
復帰後、進さんに転機が訪れた。本土系の百貨店『三越』('70年に大越より改名)で紳士服やスーツのデザイナーとして採用され、社員として入社した。
さらに'74年には三越内に佐久本洋服店の出店も果たしたのだ。
復帰直後、コザ市の佐久本洋服店周辺の仕立て屋は13軒まで減っており、現在で残るのは同店のみ。進さんの見込みは当たっていた。
ベトナム戦争の終結とともに多くの米兵は去り、多くの仕立て屋でアメリカ人からのオーダースーツの注文が減った。
その代わりに米兵と一線を画していた佐久本洋服店には県民からの注文が増えた。本土系の有名百貨店・三越への出店も後押しとなり、地元でも人気の店になった。
「父は三越の支店で働いた後、コザの店でも毎晩遅くまで仕事をしていました。私たち兄弟はその背中を見て育ちました」
要さんは5人兄弟。現在、同店の社長を務める兄の学さん(56)と要さん、ほか2人の男兄弟は父の影響もあり、服飾関係の仕事についた。
学さんは高校卒業後、東京のテーラーに住み込みで7年間修業をし、帰沖。父とともに店を盛り上げた。要さんは高校卒業後、県外の服飾系専門学校で学んだ後、短期間渡英。帰国後、三越内の店舗に立った。2001年まで同店内の店舗に勤めた。