沖縄県が本土復帰してから50年の節目である5月15日に行われた『沖縄復帰50周年記念式典』にも、両陛下はオンラインでご出席。愛子さまが、テレビで鑑賞される中、陛下は同式典で次のおことばを寄せられた。
「若い世代を含め、広く国民の沖縄に対する理解がさらに深まることを希望する」
しかし、その実現は容易くないことが露呈した。
「式典はNHKで中継されたものの、平均視聴率は沖縄地区で16・1%、関東地区で2・2%と、大きな差がありました」(前出・記者)
雅子さまが慕われた“おじちゃま”
この事実は、天皇ご一家に重くのしかかる。
「宮内庁のHPには“忘れてはならない4つの日”として、広島・長崎の原爆の日、終戦記念日とともに、6月23日の沖縄慰霊の日が示されていて、天皇ご一家は、それぞれの日に黙祷を捧げられます。戦争体験を伝え、戦没者を慰霊することは、上皇ご夫妻から継承された“使命”であると同時に、その行動を国民に伝えることも重要なのです」(同・記者)
『全国豆記者交歓会』の代表で、'63年から計100回以上にわたって皇室ご一家と交流してきたという山本和昭さん(92)はこう語る。
「沖縄が本土復帰したとき、陛下は中学1年生でした。ただ、上皇ご夫妻のご意向により、物心ついたころから、沖縄の子どもたちや、豆記者として沖縄へ派遣された本土の小中学生と面会する機会が設けられていたため、沖縄の事情をよく理解しておられたと思います」
本土との架け橋となることを目的として活動する沖縄の豆記者。昭和、平成、令和まで、交流は受け継がれている。
「皇太子時代のご夫妻は、豆記者を東宮御所に毎年お招きになりました。雅子さまはもちろん、'16年には、当時中学3年生だった愛子さまも一緒に歓談されています。雅子さまは折に触れて沖縄に対する理解を深めてこられました。これからは沖縄を肌で感じていただきたいと願うばかりです」(山本さん)
皇室と沖縄をつないできた人物は、豆記者だけではない。
「雅子さまの“大恩人”といわれている野村一成さんです。'06年から'11年まで東宮大夫を務め、ご一家のオランダ静養を実現すべく奔走。雅子さまのお父さまである小和田恆さんがロシアの日本大使館に勤務していたときの部下でもあり、雅子さまは幼いころから“野村のおじちゃま”と、慕っておられました」(宮内庁OB)
昨年7月に肺炎のため81歳で亡くなったが、晩年は、沖縄平和祈念堂を管理する『沖縄協会』の会長を務めた。