続く苦難にもめげず、銀座で奮闘
それでも、道場さんがめげることはなかった。すぐに、下田のホテルと大きな座敷がある新宿のお好み焼き屋『歌舞伎』から声がかかったのだ。
「ちょうど夏にさしかかるころだったから、若い衆は海があるというので、“オヤジさん、下田に行きましょうよ”って言うんだけど、ちょっと考えて新宿に行くことにしてね」
そこで2年働いた後、銀座の割烹『とんぼ』で働くことになった。客入りもよく、評判も上々。店側から、「道場さん、うちの重役になってくれよ」と声がかかった。
「重役って響きがよく聞こえてね。お客さんもたくさん入っていたから店の経営状況もよくわからないまま、コツコツ貯めて建てた自宅を担保に500万円を借りた。ところが、会社が1年後に不渡りを出して、それがパーになっちゃった。彼らも金がなくてそうなったわけだから、追いかけたって出ないものは出ないよね。僕が一番の債権者で、その次が珍味屋さんだったの」
銀座の路上を走っていた都電が地下鉄にかわり、キャバレーが衰退してクラブにかわりつつあった時代。『とんぼ』の上階にあったキャバレーも立ちのきが決まった。そこで、2人の債権者は、その場所を借り、『新とんぼ』をオープンさせる。
「『とんぼ』を3年、『新とんぼ』を3年。華やかな時代でしたよ。大銀座祭って大きなパレードがあってね」
『新とんぼ』も繁盛したが、船頭が2人いる店では、やがて考え方に違いが出てくる。2人の間に、どちらか一方が相手の持ち株を倍の値段で引き取ろうという話が持ち上がった。3日間、考えさせてくれと言った相手が出した答えは、「道場さんの株を買い取る」だった。
現金を得ると、念願の『ろくさん亭』を銀座8丁目にオープン。40歳になった道場さんはますます精力的に働き、スタッフも「オヤジさん」と慕ってついてきた。しかし、次女の照子さん(61)から見た父親像は違ったようだ。
「私が小さいころから両親は商売をしていましたので、常に店のことを話していましたし、ケンカをすることもありました。母は言いたいことを言うほうでしたし、父はお酒を飲みすぎたり、女性関係も結構ありましたから、決して世間でいうような仲のいい夫婦ではなかったと思います。
だけど、なんだかんだで母はいつも父のことを一番に考えていて、買い物をするときも父には特別いいものを買ってあげていました。父は父でお酒を飲んで帰ってきても、翌日は反省の気持ちを込めた俳句を母に渡したりして、憎めないところがあるんです」