介護生活の中で知ったこと
大学の合格発表があったころ、広美さんはリハビリを終えて車椅子に乗った姿でわが家へ帰ってきた。
「家族はそれぞれ仕事や学校があるので、日中は母には1人でいてもらわなくてはなりません。狭くて段差だらけの家の中で、歯磨きとか洗顔とか、身の回りのことをどうやったら安全にできるかを考えました。母もだんだんできることが増えていって、洗濯したシャツなども片手で器用にたたんでいましたね」
秀哲さんの収入だけでは、広美さんの医療費や3人の学費は賄いきれない。そのため亞聖さんは奨学金で大学に通い、アルバイトもした。
晴れて大学生になったからといって、亞聖さんには浮かれて遊んでいる時間はなかった。
「できることなら海外旅行も留学もしたかった。でも、車椅子の母と一緒に貴重な時間をたくさん過ごすことができました」
広美さんと一緒に障害者が交流する場に出かける機会も多かった。ハンディキャップを持つ人たちの運動会、障害者センターの油絵教室など、さまざまな場所でハンデを抱える人たちと接するようになったのだ。
「そういう機会が増えるといろんなことに気づくようになるんですね。そして、街や道や人がハンデを持った人にいかにやさしくないのかということも見えてくるんです」
今でこそ、「バリアフリー」などの言葉が一般的に普及し、高齢者や障害者に配慮した公共施設の改善も行われるようになった。が、広美さんが倒れた'90年代は、公的介護保険制度などもなかった時代だった。
広美さんの介護を通じて、亞聖さんはさまざまな問題の存在を知り、またよりよい福祉のために何か貢献できないか、と思うようになっていった。その答えとして彼女が出した結論は「伝えること」だった。自分自身が母の介護を通して学んだことを、アナウンサーという仕事を通して1人でも多くの人に伝えたい─。
大学卒業後の亞聖さんの目標は、こうして定まった。
そして学業と介護の生活を経て、亞聖さんは1995年、狭き門をくぐり抜け、日本テレビにアナウンサーとして入社するのである。
このとき、6歳下だった妹は高校2年生。彼女もまた仕事が忙しくなった姉の手助けにとばかりに、母親の介護をするようになったのだった。
現在、整骨院に勤務する夫と、中2の長女、小5、小3の息子と5人暮らしをしながら大手住宅メーカーに勤務する妹、大栗亞夢さん(44)が当時を語る。
「病院のこと、家のこと、少しでも手伝おうと思ってました。でも、お姉ちゃんがいれば安心だった。姉だけ別格でしたね。お母さんが病気するまではあまり姉妹の接点はなかったんだけど、あれから接する時間ができたのかな」