鹿児島出身だった千恵子さんは、歌手を目指して19歳で上京し、新宿・歌舞伎町のキャバレーで働いた。そこで明菜の父と出会い、21歳で結婚。家庭を持ったことで断念した夢は、明菜へと託された。

 当時を知る音楽プロデューサーによると、

「お母さんは“明菜がお腹にいるときから歌謡曲を聴かせていたので、絶対に歌はうまいはずです”と言っていたのをよく覚えていますよ。お母さんは、明菜をなんとしてでも歌手にしたいという思いが強かったように感じました」

 だからこそ、母親の期待に応えようと明菜は必死だった。

仲良し家族を引き裂いたカネ

 1981年、3度目の挑戦となった『スター誕生!』(日本テレビ系)で合格。1982年にデビューし、同年7月に発売した『少女A』がヒットして、スターダムへと駆け上がった。

「母も明菜がデビューしたことはすごく喜んでいました。ただ、『少女A』については、少なからず不満があったようです。“あんな曲、歌いたくない”と明菜が言うと、母は“芸能界は甘くない。そんなワガママ言ったらダメ”とたしなめていましたが、実際は母も犯罪者を示すようなタイトルがあまり好きではなかったようです(笑)」(明菜の兄、以下同)

 スターになっても、母親に甘える姿は変わらなかった。

“この間、ステージで着た衣装は私が決めたんだ”とか“アルバムのジャケットでも私がこういうところを考えたんだよ”って、褒められたくて母に報告してましたね。母も“すごいね!”って返すから、明菜はうれしそうで。明菜の税金対策のためにオープンさせたカラオケスナックも、母がお店をやりたいと知っていたので、明菜もとても喜んでいたんです」

 しかし、少しずつ家族との間に亀裂が入る。明菜は、

「家族が私のお金を使い込んでいる」

 と疑うようになっていった。

「明菜は“この人”と思ったら、信じすぎてしまう面がありました。マネージャーか誰かに吹き込まれたんでしょうね。私たちは“人をあんまり信じたらダメだよ”と伝えてはいたんですけど……」

 それでも大好きな母親が喜ぶなら─そう思っていたであろう矢先の1988年、千恵子さんに“がん”が見つかる。

「明菜は仕事が忙しかったこともあり、お見舞いに来たのは数回だけでした」

 このころ、明菜も仕事や私生活でゴタゴタが続く。