3人材&名曲を輩出。影響は後続にも
おニャン子の活動期間は、わずか2年5か月。のちのAKB48などと比べると、時代のあだ花みたいな印象すらある。が、そのわりに現在も活躍中の多くの人材を輩出した。フツーっぽさだけじゃない子もそれなりに交じっていたのだ。
その代表が工藤静香だ。1984年にミス・セブンティーンコンテストに出場して、3人組の『セブンティーンクラブ』でデビューしたものの、鳴かず飛ばず。いわば、アイドル飽和状態のなかでくすぶっていた逸材をおニャン子が世に出したのである。
また、工藤は「でき婚」によって木村拓哉をモノにした恋愛強者であり、おニャン子には私生活で注目されたタイプも多い。木之内みどりとの逃避行や堀ちえみとの不倫など、アイドルキラーとして名を馳せた後藤次利の「最後の女」となった河合その子や、名倉潤と結婚した渡辺満里奈、そして、秋元の妻となった高井麻巳子だ。
このうち、秋元と高井のケースは先生と生徒の結婚みたいだと話題になった。面白いのは後年、AKB系や坂道系のグループでは「恋愛禁止」という暗黙のルールが生まれたことだ。何かにつけて自由だったおニャン子が短命で終わったことが、のちのアイドルグループをストイック志向のプロ集団へと変化させたのかもしれない。
そんなルール以外にも、おニャン子はのちのアイドル文化にさまざまな影響を与えた。卒業とオーディションの繰り返しによる新陳代謝、グループ内ユニット結成による活性化などだ。
なかでも、モーニング娘。などでこの手法を引き継ぎ、拡大したのがつんく♂だった。生まれ育った関西では『夕ニャン』が3か月遅れで始まったものの、
「わりと最初のほうから見てたほうだと思う。まだ五味岡(たまき)がいましたからね」
と、すぐに脱退したメンバーを知っていることを自慢している。また、おニャン子の男性版として作られた息っ子クラブにも応募して、落選したという。
さらにいえば、小室ファミリー快進撃の口火を切った篠原涼子は東京パフォーマンスドールの出身。おニャン子が打ち出した大人数グループというスタイルを1990年代前半に追求したグループだ。やはり、おニャン子の影響は見逃せないものがある。
「会いに行けるアイドル」を生み出した
ただ、おニャン子が生み出した最大のものは秋元かもしれない。
スタッフのひとりだった彼は、番組とともにおニャン子が終わったことに納得できず、テレビに頼らないアイドル作りを模索した。それが実を結んだのが、自前の劇場を持ち「会いに行けるアイドル」として歌謡シーンを変えたAKBというわけだ。
なお、おニャン子に熱狂したファンはいわゆる第2次ベビーブーム世代とそのちょっと上の世代。圧倒的に人口が多い。それゆえ、懐かしがる人たちのパワーも大きく、生稲晃子のように元おニャン子の肩書で参院選に当選しそうな人も出てきたりするわけだ。
楽曲を見ても『セーラー服を脱がさないで』のような時代を象徴する曲や『バレンタイン・キッス』のような季節歌謡のスタンダードがある。また、岩手県ではローカル番組のクイズコーナーで『恋はくえすちょん』がBGMに長年使われていたりする。
そして何より、今の世の中はちょっと元気がない。だからこそ、日本が元気だった時代を思い出させるおニャン子が懐かしがられるのかもしれない。