ダブルブッキング、ドタキャン……。'00年代、ワイドショーをはじめとした話題の中心にいた和泉元彌。そんな彼に常に寄り添っていたのが“セッチー”こと和泉節子だ。
御年80歳になったばかり。小柄ながらもゴージャスな衣装とアクセサリーは以前と変わらず。当時を振り返ってもらうため、まずはダブルブッキング騒動を聞くと“セッチー節”は健在だった!
マスコミが密着したカーチェイス
「2つとも義理のある仕事なら双方を立てなきゃいけませんよね。単なる営利目的だったら、やりませんよ。“どうしても宗家にやってほしい”と言われたらキチンとやらなきゃいけないのです!
お金はもったいないですよ。ヘリコプターに乗って岐阜から名古屋へ行って、そこからジェット機にも乗り換えるんですから。私たちは義理ある仕事を最良の方法で行っただけなんですッ!」
当時は芸能レポーターなどのマスコミが、こぞって元彌とセッチーの移動に密着し、羽田空港から新宿コマ劇場までカーチェイスを繰り広げた。
「マスコミが追っかけてくるから、元彌には帽子をかぶせて、婦人用コートも着せて、目的地とは全然違う方向に走らせたり。……そういうことも、やりましたねぇ」
元彌が多忙になったのは、
'01年NHK大河ドラマ『北条時宗』で主演したことが大きかった。数多の人気俳優を差し置いての大抜擢だった。
「馬に乗って海岸沿いを走るなんていう撮影もありましたが、ケガもなくすんでよかったです。私は心配でしょうがなかったので、ずっと現場についていました。そうしたら私にも“お百姓さんの役で出ませんか?”なんて誘われましたけど、断りましたよ。宗家より私が目立っては悪いから(笑)」
元彌が『和泉流二十世宗家』を継承したのは、'95年のこと。父の和泉元秀が57歳で急逝し、21歳で跡を継いだことに“まだ若すぎる”という反対の声が上がった。
「実際は父の元秀が亡くなる前に、元彌は宗家を継承していたんです。披露パーティーまでしたのに、後になってから“元彌では若すぎる”なんて言われるのはおかしいんです。元秀は元彌が1歳半のころから20年間かけて芸を伝えており、40年間分のことを注ぎ込んだから大丈夫なのに。
私としては主人が亡くなってショックでしたけど、そんなこと言っていられない。当時は53歳でしたが必死でした。とにかく、やらざるをえなかったんです」