上手いからじゃない、誰よりも努力したんだ
「試合の翌日かな、ブラジル大使館の人から電話があって、いきなり“新聞読んでないのか”って。もちろん、読めるわけない(笑)。“どうしたんですか?”って聞いたら“あなた、1年間出場停止になったよ”と。すぐに着替えて、クラブハウスに向かいました。社長に“クビにしないでください。頑張っていつか恩返ししますから”って泣きながらお願いしたのを覚えています」
どん底のラモスを救ったのは、チームメートの松木安太郎だった。
「私がホームシックにならないように、日体大の仲間を呼んで海に連れていってくれて、スイカ割りを教えてくれたり、野球を教えてくれたり、ディスコやいろんな人の誕生日会に連れていってくれたり……。ブラジルでは家族が困っていて、出場停止なんて理由で帰るわけにもいかなかった。松木が支えてくれたし、社長には“ラモスをブラジルに帰さなくてよかったな”といつか絶対言わせようと、自分の中で誓ったんです」
試合に出られない間に、香港のクラブから3倍の報酬でオファーが来たこともあったが、松木やチームの社長を裏切れないという気持ちから拒否。出場停止が解けると、ラモスの快進撃が始まった。14得点、7アシストを記録し、得点王とアシスト王をはじめ4冠に輝いたのだ。
「出場停止中は、“こいつは1年間、給料をもらいながら六本木で遊ぶんじゃないのか”とか冷たい目で見られることもありましたね。でも、私は“そのうち見てろよ”と必死で練習しました。今でも子どもたちには“上手いからタイトルが獲れたんじゃない。誰よりも努力したんだ”と話しています」
来日から7年目の'83年、ついにチームは優勝。歓喜に沸いたが、ラモスはその2年前に選手生命の危機に陥っていた。バイク事故で、左足を複雑骨折したのだ。
「10メートルくらい飛ばされたのかな。病院の先生に仕事を聞かれて、サッカーをやってるって答えたら、“二度とできないよ”と言うんです。 私は“じゃあ触らないでくれ、ここには入院しない”と。それから夜中にいくつか病院を回ったけど同じようなことを言われ、最終的に当時、別チームの選手の紹介でお世話になっていた先生のもとに連れていってもらい、しっかり治してもらえました」