「親父は“策士”なんですよ」

 現在、興毅は亀田兄弟のマネージメントなどを行う個人事務所「亀田プロモーション」代表取締役社長としても目まぐるしい日々を送る。

 事務所の自席につくや、

「最近は毎日、数字とにらめっこばかりしてますよ。僕は元世界チャンピオンだけど、ビジネスの世界でいえば、プロボクサーライセンスでいちばん下の4回戦の人間。『俺は元世界チャンピオンなんや!』ってふんぞり返ってたらダメじゃないですか。何事も全部4回戦から」

 そう言って、書類のチェックを始める。彼の口から、「損益計算書」、「貸借対照表」といった言葉が飛び出すと、何だかカウンターパンチを食らったような気持ちになる。

「最初は全然わかりませんでしたよ(笑)。小学校だってまともに行ってないから、幼稚園卒業の“幼卒”みたいなもんですからね。自分でもようやってるわって思う」

 子どものころは、ボクシング漬けだったと振り返る。

「親父にうまく乗せられました。最初は続けたくなかった」

 興毅は小学校6年生のとき、父・史郎さんにすすめられる形でボクシングを始めた。場所は、生まれ故郷の大阪市西成区天下茶屋のジム。かつて太閤秀吉が茶の湯を楽しんだ場所でありながら、現在は俳優の赤井英和が“浪速のロッキー”として活躍した、ボクシングの本場でもあった。

 ある日、史郎さんから、「おまえ、ケンカ強い言うてたよな? ボクシングを見てみぃ。相手を倒したらそれでお金が稼げるんや」。そう言われ、その気になってグローブを握った。 

 ところが、なんてことはない普通の体形の選手とスパーリングをするや、1R(ラウンド)でスタミナが切れ、一方的に殴られた。

左・大毅、中央・興毅、右・和毅
左・大毅、中央・興毅、右・和毅

「12Rもやるなんて信じられないと。自分には向いてないと思って、親父に『やめたい』と言いました」

 返ってきた答えは、「1回決めたら最後までやらなあかん。途中でやめるなんてそれは通用せぇへんで」。興毅は、父を「策士なんですよ。やり方がいやらしい」と、親しみを込めて評する。

 そこから史郎さんの子どもたちに対する英才教育は過熱する。河川敷で走り込みと練習を繰り返し、時にはストレートパンチでろうそくの炎を消す「ろうそく消しストレート」といったオリジナルメニューまでこなした。

 父とともに世界チャンピオンの夢を目指す、興毅・大毅・和毅の三兄弟。その姿は、次第にメディアでも取り上げられるようになり、興毅自身も「中学生のときには世界チャンピオンになると決めてました」と語る。

「ただ」、少し間を置いて、「親父がレールを敷いた、その上に乗っかっているだけ。今も昔も自分で何かやりたいというものがないんですよ」とも打ち明ける。

三兄弟はまず空手を習い始めた
三兄弟はまず空手を習い始めた

 中学を卒業すると、高校には進学せず、社会人ボクシングに拠点を置いた。全日本社会人選手権フライ級で優勝するなど、十分な実績を残した17歳の“浪速乃闘拳”を、メディアは未来の世界チャンピオンなどと持ち上げた。プロデビュー戦を控えた記者会見は、異例の数のメディアが殺到したほどだった。

「後にも先にも、この時ほど緊張したことはない」。そう興毅は微苦笑する。