ところで、道端の雑草をむしってまで尾畠さんが節約するのにはワケがある。それは日々のボランティア活動費を捻出するためだ。

「近くの海辺のゴミ拾いや山の整備、そして被災地までのガソリン代も滞在費も必要な道具もすべて自腹なんよ。だから生活費はぎりぎりに抑えちょる」

 という。しかしなぜここまでボランティアに没頭するのか。それは尾畠さんの壮絶な少年時代が根っこにあると私は考える。貧しい下駄職人の家に、7人兄弟の3男として生まれた尾畠さん。5歳のとき、終戦を迎えるも、父は昼から酒を飲み働かず、10歳のとき、母は栄養失調で亡くなってしまう。

同じ1日なら人に優しく、笑顔で接して

 兄弟でただ1人、農家に奉公に出されたが、以来、日の出前から夜遅くまで泥だらけになって働いても毎食お椀にご飯1杯だけ。あまりに空腹で馬に与える腐ったカボチャを盗んで食べたが、20歳前に総入れ歯になったほど、栄養がとれなかった。

バナナは実だけでなく、皮まですべて食べる尾畠さん。「皮にも栄養、あるっちゃ」
バナナは実だけでなく、皮まですべて食べる尾畠さん。「皮にも栄養、あるっちゃ」
【写真】バナナを皮まで食べる尾畠春夫さん「皮にも栄養、あるっちゃ」

「いつもお腹をすかせていた少年時代を思えば、白いご飯が腹いっぱい食べられる今は夢のようよ。最近じゃ戦争を経験した世代も平気でご飯を残すけどね」

 大人を恨むことはなかったのか? と尋ねると、

「そりゃ当時は何でワシだけこんなひどい目に? と思ったこともあったけど、恨んだり憎んだりしても1日、人に優しくしたり笑顔で接しても1日。どっちがいいかと考えたら、笑顔でいたほうがいいと思って。

 今にして思えば、このつらい経験も無駄じゃない。人のいろんな顔も嫌というほど見たし、それに突然、災害で理不尽に生活を奪われた人の気持ちはよくわかるんよ」

 と尾畠さん。中学卒業後は魚屋で10年ほど修業。3年間、とび職をして独立資金を貯め、29歳のとき、大分県別府で魚屋を開店した。

「のんびりとした老後? いやいや、学歴もない自分が子どもたちを育てられたのは、魚を買ってくれたお客さんや、いろんな人のおかげなんよ。だから、65歳まで働いた後は、社会に恩を返したいとずーっと思っちょったの」

 最近は県内の消波ブロックの下のゴミ拾いを続けている尾畠さんだが、私がコロナ禍前に同行した被災地では、ボランティア仲間からは「師匠」と呼ばれ、時には悩みを打ち明けられることもあった。「己に厳しく、人に優しく」をモットーにしている尾畠さんだが、そのアドバイスはちょっと独特だ。

ボランティアに来ていた兄さんが、現地の女性に恋したんだけど、振られてしまって“つらいんじゃ、どうしたらいいかな?”ちゅうから、“ここにいたら、彼女が吸って吐いた空気を、あなたも吸っているからつらいんです。違う土地の空気でも吸ってきては?”って(笑)。そしたら1週間後、兄さんがどこからか帰ってきて“尾畠さん、吹っ切れたわ”って」

 そんな恋の悩みもあれば、生きづらさや複雑な人間関係に苦しむ人からの相談も。ひきこもりがちの子には、

「苦しいときこそ半歩でもいいから外に出て。風に頬を当てるだけでもいいから」

 と背中を押す。誰かの助言もいいけれど、心が疲れてしまったら外の自然に触れることがいちばん、回復につながると尾畠さんは信じている。