「とにかく、休みがなかったですからね。ずっと仕事ですから。いくら好きなことでもね、ずっと同じステーキばっかり食べてたら味がわかんなくなっちゃうみたいな(笑)。眠たいぞとか、もう食べる時間もないぞって。移動するタクシーの中でもインタビューが入るくらい、残酷なまでにパンパンのスケジュールでした」
しかし、そんな多忙な毎日の中でも“辞めたい”と思ったことは一度もなかった。
アリゾナで歌を披露すると…
「歌手をライフワークにしたかったので、やめたいというのはなかったです。ただ、もう少し自由になりたいと思っていましたね。友達と会う時間とか、女性同士でどうでもいい恋愛の話でもして、そういうところから歌詞って生まれてくるものじゃないですか」
それでも、発売したシングルは立て続けにヒットを連発し、順風満帆に見えた歌手生活だが、渡辺はデビューから10年後の'88年に突如、アリゾナへ半年間の留学を敢行している。いったいなぜ─。
「時代が、フュージョンとかバンドブームになっちゃったんですね。突然、時代が背を向けたような感じだったので、非常に寂しい思いをしました。でも当時、ほかのボーカルの人たちがみんな外国へ行ったりしていて、日本だと顔はバレちゃってるし、充電するためには外に出たほうがいいと判断しました。私自身、それまで目まぐるしく仕事に追われ続けてきて、自分にとって必要なものとそうでないものを整理する時間が必要でした」
留学先では日常会話レベルの英語を教えている学校に通った。世界各国から集まってきた、英語が話せない人々との日々はカルチャーショックの連続で、自分が歌手であることを忘れ、刺激的な毎日を送っていたという。しかし、やはり現地でも渡辺がヒット曲を数多く持つ歌手であるという噂は広まってしまったようで─。
「ある日隣のクラスのドイツのクラブ歌手の女性が、“どの子なの! 日本の歌い手の子は!?”って乗り込んできたりして(笑)。そんなときイースターのパーティーで歌を披露することになったんです。そこで『かもめが翔んだ日』を歌ったら、みんな片言の英語で私にその感動を伝えにくるんですね。
そのときに、“ああ、自分の身体から自分の国の言葉で歌うことがいちばん伝わるんだな”っていうことを肌で感じました。それで、自分の技量を出せる曲を自分の好きなシチュエーションで歌いたいと、より強く思うようになったんですね」
突然のブーム終焉に迷いはあったものの、留学を経て原点を思い出した渡辺。その後は、ラテンやジャズなど新しい表現へと挑戦していった。そして、'19年には40年前の『ポピュラーソングコンテスト』で出会った中島みゆきの『夜会』への出演を果たす。