女子日本代表チームを作る!

「第2回AFC女子選手権」には、もちろん岡島さんも選手として出場した。高校3年生の夏休みのことだ。

 初めての海外試合。開催場所は台湾の台北だった。

「当時、女子は日本サッカー協会に登録できませんでした。私たちは日本代表選手ではなく、FCジンナンというひとつのチームとしての参加。だから胸に国旗はつけられなかった。悔しかったですね。帰国したら絶対に女子代表チームを作るぞと心に決めました」

 とはいえ、岡島さんにとって、海外の大きなスタジアムで観客に迎えられ、天然芝のピッチでプレーするのは夢のような時間だ。海外の選手と会うのももちろん初めて。チームメートが部屋で過ごす間も、海外の選手たちにどんどん話しかけた。

「いつもどんなところで練習してるの?」

「どんな練習方法?」

「普段の仕事は何?」

 中高で習った英語を駆使して質問すると相手も真剣に答えてくれる。2週間弱の滞在期間中に、いつの間にか英語でコミュニケーションが取れるようになっていた。

「とにかく知りたいことがいっぱいあった。私は練習環境にも満足していなかったし、何より、海外の代表選手と話せることが楽しかった」

 帰国後はサッカーをしながら受験勉強に力を入れた。

「大学生になったら、女子サッカー連盟を作るためにサッカー協会でバイトしてリサーチしよう!」

 FCジンナンで短期間教えてくれたコーチの影響で、早稲田大学を目指した。受験勉強は順調で合格の自信があったが、受験当日、予期せぬ出来事が起こった。

「試験初日、ラッシュの電車に初めて乗ったら、生まれて初めて痴漢にあったんです。しかもその日は生理初日で体調も最悪。動転して頭もぼーっとして、自信があった英語がまったくできませんでした。あの痴漢、本当に許せない」

 早稲田大学は不合格。併願していた中央大学に入学し、並行して予備校にも通いながら翌年、早稲田大学に入学を果たす。

「今の年齢になると1年ぐらい大したことはありませんが、当時の1年は長い。私にとって大きな挫折でした。でも、ずっと考えていても仕方がない。はい次、って切り替えるんです。覚えてても何もいいことないでしょ」

 大学時代、アルバイトした日本サッカー協会は時給300円、交通費は出なかった。

サッカーに関わることならなんでもやりました。郵便物の準備だって楽しかった」

 目の前の雑務をこなしながら、女子サッカー連盟を立ち上げるために必要な人脈や情報を集めていた。会う大人たちに、「女子サッカー連盟を作りたい」と言って回った。

 早稲田に入り直して2年目の1979年、念願の日本女子サッカー連盟設立が決まった。岡島さんは、設立に貢献したことが認められ、大学生の現役選手として唯一理事にも選出された。選手として活動しながら、大会運営にも全力を注ぐようになっていた。

 FCジンナンのチームメートだった酒井裕子さんは、岡島さんは常に「自分が貢献できることはすべてする」という姿勢でサッカーに取り組んでいたという。

「試合中にゴールキーパーがケガをしたとき、控えのキーパーがいなかったんです。そのとき、きっこ(岡島)さんが『私やります!』ってすぐに手を上げて、キーパーグローブをつけて颯爽(さっそう)と出ていった。フィールドプレーヤーなのに。カッコよかったなあ」

 とりわけ印象的だったのは1982年、『静岡県清水で行われた全国大会』でのことだ。

 試合の結果は敗戦。決勝に進めなかった。しかしそのとき、切り替えの早さにも驚かされたと酒井さんは言う。

「きっこさんはロッカールームで自分のロッカーを開けて『ワーッ』と号泣しました。だけどすぐに切り替えてロッカーを閉めたんです。『はい終わり。おしまい、次!』って。ピンチのときに自ら手を上げて全力を出し切ったからこそ、きっこさんは『はい次』って言えるんだと思いました。泣いていたのはほんの数秒。後にも先にも、泣いていたのを見たのはあのときだけです」