一気にブレイク、多忙な日々が始まった。1日3公演は当たり前。合間に雑誌やテレビの取材を受ける。

「それは大変でしたよ。しんどかったけれどもステージに立っちゃえば、不思議としんどさはなくなるんです。俺はライブが一番好きでした」

 今では考えられないハードスケジュール。若さと勢いで乗り切った。

諸星和己との不仲説を直撃

「俺らのころは、打ち身、打撲、捻挫、骨のヒビはケガに入らなかった。ステージからスケートを履いたまま2メートル下に落ちて、何かの角に脛をぶつけたことも。半ズボンだから肌に“直”で、血がプシューって噴き出して。脛って穴が開くんですね。噴き終わったら“泉の水”みたいにドクドク血が流れてきた。それでも応急処置のテーピングをして、最後までやり切りましたよ

 激痛だったが、アドレナリンが出たという。得意のバク転でもアクシデントが。

「ステージ上で数回転したとき、メンバーが飛び出すための穴に着地。ズボーッと蓋が抜けて。その角の部分で背中をズリズリズリ~って擦りながら落ちたんです。背中の皮がむけてヒリヒリしたけど、やり切りましたよ。病院には行きませんでした。そういう経験をして、寿命が縮まったのか、タフになったのかはわかりませんけどね(笑)」

 睡眠は3時間。忙しくても、プライベートの楽しみを削ることはなかった。

東京・西五反田にて熊本直送の馬肉料理店『樹馬 KIBA』をプロデュース
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【集合写真】'88年に撮影された全盛期の『光GENJI』

「寝る間も惜しんで飲みに行っていましたね。オン・オフは必要ですから。夜中の1時、2時から振り付けを覚えたり、打ち合わせをしたりもありました。“眠くて振り付けが頭に入んねぇよ”みたいなことを言ったり(笑)」

 '88年、『パラダイス銀河』でレコード大賞を獲得。オリコン年間売り上げの1位から3位を独占した。

「言ってしまえば“日本の頂点を極めた”わけですよね。ただ“大賞を取れば稼ぎがヒト桁違ってくる”と言われてましたけど、何にも変わりませんでしたね(笑)」

 一方で、グループ内には軋みが生じていた。大沢と諸星和己の“不仲”が噂されるようになる。

仲が悪いっていうのは、ちょっと違うかな。合う、合わないって人にはあります。そこだけですね。彼は彼で素晴らしいエンターテイナーだと思いますよ。でも、自分とはキャラも方向性も、追求するものも違うんです」

 自由奔放な諸星を、ほかのメンバーが冷ややかに見ているとも言われていた。