札幌で様々なバンドのボーカルに参加

 その当時、札幌の繁華街にバンドをやっている高校生たちが集まるビルがあった。

近くに音楽の貸しスタジオがあって、順番待ちをしているバンドマンが2階のフロアにいっぱいたむろってた。そこの掲示板に“ボーカル募集”とか貼ってて、レベッカのボーカル募集ってあると、“あ、私やります”とバンドに加入したり、そこでは売れっ子になってました(笑)。

 でも私にしてみれば、“私は、東京や世界を目指してるんですけど!”なんて生意気に思ってた(笑)。それでも彼らと一緒にやったのは、大人のバンドだけじゃなくて、同世代のバンドにも入っておきたかったから。レベッカはやりたかったしね」

 当時はバンドブーム真っ只中。摩紀は、様々なバンドのボーカルとして歌い、札幌でも有名な存在になっていた。

「でも学校にバレちゃうとヤバいので、学校の近くではおとなしくしましたよ(笑)。え、部活動? パレー部でした。私の学校は、成績悪くても卒業する条件として部活動はちゃんとやるというのがあったから。ちゃんと部活にも顔を出していましたよ」 

12月14日に発売される30周年記念アルバム『BACKBEATs#30thAnniversary-SPARKLE-』は、現在の大黒摩季のすべてが詰まった作品
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2年の約束で始めた東京での音楽生活 

 当初、摩紀は高校を卒業したら音楽大学に進みたいと思っていた。しかし、パン工場の経営には波があり、景気のいい時ばかりではなかった。ある時、母が言った。

「マキちゃんごめんね。4年制の音大に行かしてあげたかったけど、短大で我慢してくれる?」

 2年だったら花の女子大生してたらすぐ終わっちゃうじゃん、クラシックは普遍な音楽だし今できることをしよう、と摩紀は考えた。

「だったら、自分でプロを目指して勉強すればいいやと思った。“東京に行きたい”と伝えると、一応儀礼的に反対されたけど、結局は“しょうがないな”と思われたみたいで。私は、2年間だけの約束で東京を目指したんです」

 東京近郊にある叔母の家を拠点にして、オーディションを受けたり、レコード会社にテープを送ったりしながら、バイトをして過ごしたのだ。

 そして1989年。テープを送っていたビーイングのオーディションの一次審査を通過した知らせが届く。

 現在、大黒のチーフマネージャーを務める高野昭彦(67)は、その当時ビーイングの制作ディレクターを務め、テープ審査を担当していた。

「応募には5000本を超えるテープが届きました。それをディレクター達に振り分けて、毎晩、50本から100本聴くんですよ」

 高野の分の中に、大黒から届いたテープが含まれていたのだ。

「オリジナル曲が3本入っていました。歌がいいなあ、魅力的だなあと。まずは会ってみたいと思いましたね」

 2次審査は対面。20人ほどが残り、最終審査となる。とはいえ、それですぐさまデビューというわけではない。

「ビーイングのオーディションはデビューすることがテーマではないんです。合格した子は、そこから歌や作詞作曲を勉強しながらデビューを目指すんですね」

 と高野。最終的な合格者は、大黒も入れて5組だった。そこで、審査した代表の長戸大幸(74)は彼女にこう言った。

「君はね、オーディション的にはまあまあ。君みたいな人は東京にいっぱいいるから。でも可能性はいささか感じている。うちのスタジオにはいろんなミュージシャンが出入りしてるから、コーラスなんかも勉強して磨いてみたら?」