紆余曲折でつかんだ「福祉への道」

 早川さんは児童養護の分野で第一人者として知られる存在だ。さまざまな講演やシンポジウムで登壇し、国会に参考人として呼ばれたこともある。だが、最初から福祉の道を目指していたわけではなかったという。

 千葉県佐倉市の出身。新興住宅地で中流家庭の多い地域だったが、困窮世帯が多く住む地区もあり、地元の中学校は荒れていた。

「小学校6年のときに、生徒か卒業生が中学の校舎に火を放って、校舎1棟が燃えたことがありました。入学前はビビってましたが、いつの間にか溶け込んでいましたね」

 それから仏教系の高校に進み、卒業後、早川さんは神奈川県内にある私立大学に進学する。

やんちゃな同級生たちに囲まれながら、部活に励んでいた学生時代。(撮影/齋藤周造)
やんちゃな同級生たちに囲まれながら、部活に励んでいた学生時代。(撮影/齋藤周造)
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「政治経済学部の経営学科。大学を卒業しても就職するつもりはまったくなかった。とにかく起業して、独立しようと思っていましたね」

 折しもバブル真っ盛り。最初こそ下宿だったが、2年目からはアパート暮らしを満喫した。ろくに大学には通わないで、当時できたばかりの千葉・舞浜にあるリゾートホテルでウエーターのアルバイトに励んだ。

 さらには東京・新橋の高級割烹料理店で、ホールの仕事を掛け持ちするようになった。

「大企業が接待で使うような、領収書をバンバン切るタイプのお店。銀座と新橋に2店舗あって、私は新橋店のほうにいました。そこで結構認められて、店の管理を任されるようになったんです」

 ある日、店のオーナーから銀座の高級クラブに連れていかれた早川さんは、「おまえが店長になれ」と言われた。

「“今の店長がいるじゃないですか”と言ったら“気にしなくていい。(現店長を)路頭に迷わすようなまねはしないから”と軽く言う。断ろうと思っていたら結局、銀座店の店長が辞めたために新橋店の店長が異動し、私が店長を務めることになりました」

 しかし早川さんは、“ライバルと競争して蹴落とし業績を上げるこの仕事は、自分には向いてないな”と、だんだん思うようになる。とはいえ大学に籍はあるが、卒業する気はないし、サラリーマンになる気もない。そこから思案の日々が始まった。

 そして22歳の暮れ。仕事が終わり、当時付き合っていた彼女と一杯呑んで、新橋の道を歩いているときだった。

「その夜は大雪で、横断歩道を渡るとき、ふと空を見上げたら、シューッと自分が空に吸い上げられるような感覚になった。錯覚なんだけど、何かが見えたような気がしたんです。ビリビリッと電流が走った。

 そんなときに、いつも歩く道を普段と違う目線で見ていたら、“もし車椅子になったら、5分で歩けるこの道を何十分かけても目的地にたどり着けないんじゃないか”と思ったんです」

 この街は歩ける人間だけを想定していて、車椅子の人のことなんか考えていないんだな。今まで見えてこなかったものが、実はいろいろあるんじゃないか──。

 そう気づいた早川さんは、いろいろと調べるうちに、福祉という言葉に出会う。社会福祉士という国家資格の存在も知る。

 それからは2年がかりで再就学に備えた。神奈川の私大から、社会福祉士の合格実績を謳う日本福祉大学の3年次編入試験に合格、中部地方へ移った。

「特におもしろかったのが国際福祉の授業。アフリカの飢餓の話を聞いて、現場を知る教授が映像も見せてくれました。そこで2回目の電流がきて“これだ!”と思ったんです」

 ところが、東南アジアでの実習に参加できず、国際福祉に進むことは断念。失意の中でも資格取得のためには、早く実習先を決めなければならない。

 早川さんが出した希望は「1番、障害者福祉。2番、高齢者福祉。3番、児童福祉」の順番だったが、第3希望の「児童福祉」に配属が決定。大学から近い情緒障害児短期療養施設へ、実習に出向くことになった。

 その施設は子どもたちが暴力的で、実習途中で女子学生が泣き出して、実習中止になったこともあった。

 早川さんら4人の実習生が施設に行くと、いきなり10人以上の子どもたちが飛びかかってきた。そこで早川さんが次々に高く担ぎ上げてはスッと着地をさせると、子どもたちが歓声を上げた。

児童養護の仕事について「授かった縁を次世代につなぐことができる尊い仕事」と早川さん(撮影/齋藤周造)
児童養護の仕事について「授かった縁を次世代につなぐことができる尊い仕事」と早川さん(撮影/齋藤周造)

 同じようにして、正月や盆休みのたびに親戚の子どもたちと遊んでやっていたのだ。その経験が活きた。

子どもたちは荒っぽい遊びが好きですから、おかげで一躍、人気者になった(笑)。そんなつもりはなかったんだけど、周りの実習生からも一目置かれたりしましたね」

 実習が終わるころには、施設の担当者が早川さんについて、「子どもたちの乱暴な言動の裏にある、本当の思いをくみ取ってくれようとする姿は立派でした」と評してくれたほどだった。

 早川さんには、この実習を通じて2つの気づきがあったという。

「1つは“俺、児童福祉って向いてるじゃん”ということ。単純に子どもたちとのやりとりが楽しかったんです」

 もう1つは、「なぜ、この施設の子どもたちはこんなに乱暴なのか」ということだった。手がかかるし、すぐにキレてケンカが絶えない。いじめも日常的だった。

「その施設には“治療”と称して、社会や地域から排除された子どもたちが集められていました。家庭や学校では、とうてい面倒を見られない。だから施設で、学業も生活もセットで面倒を見てね、というわけです」

 施設に保管されていた、さまざまな記録も読んでみた。

「貧困と暴力の問題が世代間で連鎖し、それがいちばん弱い立場の子どもにまで及び、社会から排除されてきた実態がよくわかりました」

 早川さんはその後、ほかの児童養護施設と児相でも実習をこなした。子どものためになる社会福祉士を目指す気持ちは、一層強まっていた。