『オールナイトニッポン』への意欲もなかった
就職活動も、とりあえずドキュメンタリーの制作会社、CMの制作会社と、アナウンサー試験を受けました。たまたま、最初に採ってくれたのがニッポン放送だっただけで、“絶対に『オールナイトニッポン』のパーソナリティーをやりたい!”といった思いも、別になかったんです(笑)。
アナウンサー試験の日は午前がニッポン放送、午後がTBSでした。午前の面接でニッポン放送の方に“ここで君を採用するって言ったら、TBSの面接には行かないでニッポン放送に来る?”って言われて。そんなこと言われたら、“行きます!”と言ってしまうじゃないですか(笑)」
しかし、アナウンサーの仕事は学園祭のようにうまくはいかなかった。
「滑舌は悪いし、早口言葉も全然できず、喉は枯れ……、研修から挫折しました。 その年の入社は女性が多かったのですが、みなさんアナウンススクールにもちゃんと通っていたらしく、ものすごく上手でしたね。私は1回も行ったことがなくて、アナウンスなんてやったこともなかったので、“まいったな”と。
女性はすぐに番組も決まっていったんですが僕は全然だし、2年目の秋にやっと、週1回、若者向けの番組を担当したら、半年で番組自体が終わってしまっいました。すると、『オールナイトニッポン』の2部の枠が空いて“あいつ番組なくなっちゃったから、とりあえず”と、そこに入ることに。そんな感じだったので、“職業の選択間違えたかもしれないな”と思いましたね。
今でこそ、『オールナイトニッポン』の2部はスポンサーもついていますし、佐久間宣行さんみたいなすごい方がやって本当に面白いですが、あの当時はアナウンサーの兄ちゃんが入ることを許してもらえる時代だったんですよね」
それでも、だんだんと“ラジオっておもしろい”と思えるようになっていった。
「先輩のディレクター方に自分という人間をすごく知ってもらえたし、かわいがって育てていただいたので、本当によかったです。何か言えばリスナーからおハガキが来るし、中島みゆきさんが前の時間の番組をやっていたので交流を持てたりもしましたし。いまだにずっとそういうご縁が繋がっていますし、そういう場所をいただけたことは大きかったですね」