初めて聞いた欽ちゃんの怒鳴り声

 欽ちゃんファミリーは甘いところではなかった。猛稽古では何度もダメ出し。ヘトヘトになってからの反省会は3時間。それでもメンバーたちは必死に個性を磨いた。

「しんごはヒマさえあれば廊下に寝転がってクルクル回ったりしていて、何してんのやろと思ったらブレイクダンスの練習やった。なりふりかまわず努力する、あの不屈の精神がプロになる姿勢やなと思っていつも横目で見ていました」

 一方、風見さんにとっても小西さんの姿は励みだった。

「コニタンは『オレの頭の中ではロッキーのテーマが流れているんや』と言って、ヒマさえあれば腕立て伏せしていましたよ。番組ではウシみたいにむっつりしてても、心の中は常に戦っているんだなって」(風見さん)

 メンバー同士が刺激し合い、高め合う関係。風見さん、佐藤B作さん、清水由貴子さんらとともに結成された「欽ちゃんバンド」は番組の人気コーナーとなる。そして風見さんは『僕笑っちゃいます』で歌手としてソロデビュー。

人気だった「欽ちゃんバンド」は、'83年にアイドル誌『明星』の付録の表紙にも登場
人気だった「欽ちゃんバンド」は、'83年にアイドル誌『明星』の付録の表紙にも登場
【写真】番組で人気コーナーだった「欽ちゃんバンド」。明星の付録表紙も飾った

「『ザ・ベストテン』に初登場したとき、B作さんとコニタンが応援に来てくれたんですが、いちばんよくしゃべったのがコニタンでした。僕やB作さんは緊張でガチガチなのに、コニタンは司会の久米さんと黒柳さんを相手にアドリブまで飛ばしていた。あの本番での度胸はスタッフにも強烈に印象に残ったと思いますよ」(風見さん)

 頭の中でロッキーのテーマを流し、本番で自分を奮い立たせる。でも、それは心が揺れている証しでもあった。

「気がつくと、車の中でこっそり社会科の問題集を広げていたこともありました」

 教師を諦められない。そんな、どっちつかずの生き方にダメ出しをしてくれたのは師匠の欽ちゃんだった。

 '83年8月20日。『24時間テレビ 愛は地球を救う』の司会は欽ちゃん。名古屋の握手会場は小西さんのホームグラウンドも同然。コニタン目当てのファンも大勢駆けつけ、その中に松葉杖(づえ)の女子高生がいた。コツコツ貯めた5円玉の募金を手渡したくて一生懸命歩いてきました、と。

「明るい子でしたよ。5円玉にはご縁があるから、また来年もコニタンに会いにくるねって。その後ろ姿を見送っていたら、お母さんが、泣きながら『来年はありません』と、僕に言うてきて……」

 娘は骨肉腫で4月に死んでいてもおかしくなかった。でも「コニタンに会うんだ」と4か月も生きてくれた──。

 小西さんは言葉を失い、泣き崩れた。その肩を欽ちゃんがポンポンと叩(たた)く。

「芸能人っていいだろ?」

 小西さんは大きく首を振った。芸能人が何や、自分はあの子に何もしてやることができないやないか。すると、

「ばかもん!小西があの子に希望を与えたんだぞ。医者にもできないことをおまえはやったんだ!」

 初めて聞いた欽ちゃんの怒鳴り声。そして、

「それでも先生になるほうがいいか?」

 見透かされていた心の奥底。芸能人として生きる─。“無欲”は“覚悟”へと変わった。

 9月21日。清水由貴子さんとのデュエット曲『銀座の雨の物語』で小西さんは歌手デビュー。歌番組にも多数出演し、芸能人として吹っ切れた。が、テングにもなりかけた。

「有頂天になる僕をいつも横で叱ってくれたのがユッコちゃんでした。“私たちの仕事はお客様に夢と希望を与えること、その期待を絶対に裏切っちゃいけないの!”って」

 '85年秋、『週刊欽曜日』が終了すると、翌週から小西さんは『ザ・ベストテン』にレギュラー出演。

「当事の番組映像をユーチューブで見て『ウソでしょ!?』と思いました。若いころの小西校長、カッコよかったんだ(笑)」

 と話すのは、日本航空高校の社会科の新任教師、渡辺祥平さん。国民的な歌番組の2代目司会として登場したのは、リーゼントにタキシードでキメたカッコいいコニタン。ただ、大役のプレッシャーに空回りすることも。

「少年隊がデビューして初登場第1位の回で“シブがき隊のみなさんです!”と紹介してしまって……。生放送が終わるとジャニー喜多川さんが来て、うわ、殴られると思ったら、指をパチンと鳴らして“You good!”。怒らずに笑って許してくれたんですよ」

 失敗を重ねながらも出演者たちから愛された。こんなエピソードもある。1986オメガトライブの出演はホテルのプールサイドから生中継。演奏が終わった瞬間、進行役の小西さんが足を滑らせプールにドボン。

「台本にはギターの黒川(照家)さんをみんなでプールに突き落とすって書いてあったんです。だけど出演者にそんなまねさせたくないじゃないですか」

 ならば自分が道化役に。現場での小西さんの心配りは多くの歌手が知っている。

 俳優としても忙しくなる。長年マネージャーを務めてきたスタークコーポレーションの社長は言う。

「裏方さんにも気を使って、例えばメイクさんによって仕上がりが違うと、やり直してもらうのが申し訳ないと言って、小西は私にメイクをさせていたこともありました」

 他方で、自分には厳しすぎるほど厳しい。そんな小西さんは大物俳優たちからかわいがられた。渡哲也さんには共演者に対する心得を叩き込まれた。松方弘樹さんは粋できれいな遊び方を教えてくれた。高橋英樹さんから殺陣(たて)の指導を受けたこともある。

 バラエティー番組でも存在感を示した。TBSの『筋肉番付』ではパワーを発揮し、総合5位の好成績。肉体派の健康優良タレントとしても活躍の場は広がった。

 小西さんの事務所社長は言う。

「小西は健康にも人一倍気をつけ、風邪もめったにひかないほど元気でした。だから、まさかと思いました」

 末期の腎臓がん。医師は小西さんに告げた。

「余命は、ゼロです」