朝鮮学校に進みディスコにもデビュー
北朝鮮は遠のいたものの、高校はそのまま朝鮮学校に進んだ。朝鮮高級学校は都内に1校だけで、当時住んでいた日吉から学校のあった十条まで電車とバスを乗り継ぎ通学していた。
「東京のほか千葉や埼玉など関東近郊から同胞が集まり、高校になると生徒数が一気に増えました。入学試験は一応あるけれど、朝鮮高級学校に入ることは難しくなかったですね。ほかの学校を退学になって転入してきた人もいました。
日吉に越したのは12歳のとき。しばらくして母が2駅先の大倉山で焼き肉店を始めています。父はもともと考古学者で、本ばかり読んでいるような人。それもあって祖父が起こした金型工場で社長業をしていたけれど、商売に興味もなければ、お金を稼ごうという意欲もありません。
母が焼き肉店を始めたのも、たぶん家族が生きていくため。父が稼げないからしょうがない、という考えがあったのだと思います。私も高校時代に少し店を手伝っています。けれど忙しくて母と話す暇もなかったですし、手伝いもほんのわずかな期間だけでした」
高校1年のとき喫茶店でアルバイトを始めた。ブラックミュージックのレコードやコンサート代、当時流行っていたスケボーを買ったりと、遊ぶための小遣いが必要だった。
学校はバイト禁止だったけど、そんなことはまったく気にもしませんでしたね。ディスコ・デビューは高校時代。横浜・中華街の喫茶店でアルバイトをしていたときのことでした。(次回に続く)
<取材・文/小野寺悦子>