本名が「信夫」だからかなった弟子入り

 その昔、芸人には『飲む打つ買う』がつきものだった。コンプライアンスが厳しい今とは違う時代。落語の世界と共鳴しあう、芸人にとっては古き良き時代だ。

 好楽の落語家人生は、そんな名残が滞っていたころに始まった。

 ザ・ビートルズが来日した1966(昭和41)年のことだ。高校を卒業した18歳の春、八代目林家正蔵(のちの彦六)さんに入門を願い出た。正蔵さんは69歳。もう弟子は取らないと決めていたが、ある偶然の一致が好楽に味方した。

「(東京都台東区)稲荷町の自宅に、弟子にしてくださいとおじゃましました。1日目、2日目とダメでしたが、懲りずに3日目も行ったんです。そのとき『名前は何ていうんだい?』と聞かれ『家入です』『下の名前は?』『信夫です』と答えました」

 次の瞬間、正蔵さんが台所仕事をしているおかみさん(=妻)に「おい、おばあさん、のぶおが帰ってきたよ」とうれしそうに呼びかけたという。正蔵さんには表記こそ違うが『信雄』という息子がいた。17歳で夭折した忘れ形見と同じ名前の音の「信夫」。それで入門が許された。好楽の“持っている”落語家人生の始まりだ。

 もともと、家入信夫少年は、いわゆる「落語小僧」「落語少年」だった。

 生まれは東京・池袋。

「当時、池袋の西口は何もなくて、原っぱがあった。私の家は東口にあって、(当時の国鉄)池袋駅までは歩いて10分ぐらい。高校時代、学校から帰ってくるとカバンをボーンと放り出して、向かった先は西口にある池袋演芸場。今のビルに建て替える前で、2階がビリヤード場、3階が寄席で4階がダンスホールでした」。原風景は好楽の脳裏に、今も鮮やかだ。

 寄席に通うほどの落語好きになったきっかけは、母親が聴いていたラジオ放送だった。

 五代目三遊亭円楽さんにするか、正蔵さんにするか師匠選びに迷っていた信夫少年の背中を押したのは、ラジオから流れてきた正蔵さんの『鰍沢(かじかざわ)』。山梨・身延山久遠寺へ参詣した江戸の商人が、吹雪の中で一夜の宿を確保したものの、その家の毒婦に鉄砲で撃ち殺されそうになるという初めて聞く噺に身体が震え、信夫少年は迷いを吹っ切ることができた。

女手ひとつで8人の子どもを育ててくれた母、家入アツミさん
女手ひとつで8人の子どもを育ててくれた母、家入アツミさん

 8人きょうだいの6番目。警察官の父は信夫が6歳のとき、40代で急死。新聞配達で家計を支えた。母の苦労を少しでも減らそうと、兄たちが公務員や税理士など堅い職業を選ぶ中、信夫だけが落語家を志望。自分と一緒に聴いていたラジオが信夫の心を動かしたことを知り、母は許した。

 入門時、親と一緒に師匠にあいさつに行くことが落語界の習わしである。その際のやりとりが、傑作小噺だ。

 正蔵さん「こんなやくざな世界へ大切な息子さんを入れていいんですか」

 母「ええ、泥棒になるよりましですから」師匠69歳、信夫18歳。親子以上、祖父と孫のような師弟が誕生した。