苦手なことから逃げてはいけない

 中学に入ると風向きが変わる。幼いころから算盤を習っていたこともあり、数学は得意だった。学年が上がり数学嫌いな生徒が増えるにつれ、逆に菅原さんは数学の成績がぐんぐん上昇。クラスで1、2番になった。

中学時代は数学と国語が得意で、苦手な暗記を集中的に勉強
中学時代は数学と国語が得意で、苦手な暗記を集中的に勉強
【画像】菅原さんの大食い女王時代、息子・慶くんなど(全11枚)

 部活は体操部に入った。当時は体操部とテニス部が人気を二分していた。’76年のモントリオール五輪で活躍した体操のコマネチ選手と、テニス漫画『エースをねらえ!』に憧れる女子が多かったのだ。

「苦手なことから逃げてはいけない。中学からの私は違う人になるんだ!」

 そう意気込んで、あえて体操を選んだが──。

「跳馬とか平均台とか、運動神経抜群な人でないとできない感じで。結局、私は3年間何にもできなかったけど、柔軟性は鍛えられたので、よかったんじゃないですか」

 高校では一転、新聞部に入部。高校の図書室にある文学全集を読破していった。三島由紀夫、太宰治、芥川龍之介……。

 読み方も独特だ。全20巻の全集なら、7、8巻目あたりの代表作から読む。

「どうすれば効率よく最後まで飽きずに読めるか、考えたんですね。何をするときもまず効率を考えるんです。大食いのときも、お肉ならこう切れば早いとか、どうすれば効率的に食べられるか、常に考えていますよ」

 宮沢賢治や石川啄木は読まなかったのかと聞くと、「地元に住んでいると嫌いになるんです」と真顔で言う。

「岩手が誇るとか、さんざん聞かされてイヤになっているのに、小学生で宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読まされて。よくわからなくて、ますます嫌いになりました。

 それが、高校生になって素直に読んだら、すごく面白いなと(笑)。読んだのは童話だけですけど」

司書の試験を受けて福島県に採用され働いていた23歳のころ
司書の試験を受けて福島県に採用され働いていた23歳のころ

 山形県立米沢女子短大に進み、公務員試験に合格。福島県に司書として採用された。5年働いてひとり暮らしに疲れてきたころ、祖母が死去。身体の弱い母が倒れたのを機に実家に戻り、眼鏡店の販売の仕事に就いた。