パン屋になっても励みは数字
趣味でパンを焼き始めたのは10年以上前だ。ラーメン屋やスーパーなどで働きながら、パン作りの本を読んで独学した。とことん突き詰めるのは大食いのときと同じだ。このパンは好きだなと感じると、その本を書いた職人の店まで行き、実際に会って話したりもした。
小麦粉100に対して水を62など、すべての材料を計量していく作業は、数字が好きな菅原さんには楽しいひとときだ。粘土細工のように、いろいろな形を作っていくのも面白い。
焼いたパンを友人たちに配ると、「美味しい!」と好評だった。何年も続けていると「店を開いたら」と繰り返し言われるようになった。
近くに住む同じ年の友人、佐藤京子さん(仮名)も何度もすすめたひとりだ。
「店を開くなら、みんなで協力するよと話していたんですが、初代さんはずっと、“できない”と言っていました。それがある日、“もう工事に入ったから”と。あっという間に自分で進めて、本当にパン屋さんを開いてしまったので、すごい行動力だなと思いましたね」
自宅の一角に『カンパーニュ』をオープンしたのは、’16年12月。慶君に何かあってもすぐ様子を見ることができる。それも決断した理由のひとつだ。
慶君は小中と特別支援学級で学び、今春、高校に進学する。盛岡でも障害児教育に定評のある小学校で、人の顔を見て話すなど基本的なことから繰り返し学んだおかげで、できることが増えた。
今では買い物や銀行で両替もしてくれる。学校が休みの日は、ゴミ捨てや洗い物もしてくれる。
「普通の親からしたら、考えられないくらい望みが低いので、すごく成長したなと思います。だって、小5くらいまで妄想がひどくて、ひとりでトイレにも行けなかったんですよ。“ひとりで行って”“お母さんが一緒でないと怖い”と、延々と繰り返して、本当に疲れました。息子に言わせると、“僕が1伸びる間に、世間は10伸びる”と。知的障害はないので、いろいろわかっているんですね」
菅原さんは身長167センチと大柄だが、すでに慶君に抜かれた。一緒に美術展に行ったり、映画を見に行ったりするのが楽しみだ。
友人の佐藤さんによると一卵性親子と呼びたくなるくらい、仲がいいそうだ。
「この間、3人で遊びに行ったときも、慶君が初代さんの腕をキュッとつかんで、ちょっと甘えてから好きな場所に行くんですよ。もしかしたら慶君が大変なぶん、より深い絆があるのかなと思うし、2人を見ていると、ほのぼのした気持ちになりますね」
店を開ける火曜日から土曜日は、朝3時前に起床。前日夜に仕込みをしたパンを早朝から焼き始める。焼くのも売るのも菅原さんひとりだ。同じパンだけだと飽きられるので、新しいパン作りにもチャレンジしている。
お客は1日20~30人。大食い女王の店と知らずに買いに来て、リピーターになる人も多い。
週に1、2回は来るという女性客は山型食パンをまとめ買いしていた。
「どのパンも決して安くはないけど、満足度が高いので結果的に高くないんですよ。食パンにバターやジャムを塗るだけで、すごく美味しくて、夫や娘にもほかのパンはもう食べられないと言われます」
店名にもなっているカンパーニュを食べてみた。フランス語で田舎という意味のどっしりとしたパンだ。食べごたえがあり、かむほどに深い味わいがある。
菅原さんにこれからの夢を聞くと、特にないという。
「夢を持っても現実は変わらないので、目先のことしか考えられないですね。励みはやっぱり数字です。売り上げは自分に対する評価なので」
モットーは、決して手を抜かず、小さな努力を積み重ねていくこと。
控えめに笑う姿は、魔女というよりも、黙々と道を究める求道者のようだ。
取材・文/萩原絹代 撮影/坂本利幸
はぎわらきぬよ◎大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。’90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。’95年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。