プロレスラーを志すも家族が猛反対
本名・佐々木久子(旧姓・宇野)は、埼玉県吉川町(当時)の3姉妹の次女として誕生した。生家は、12代続く地元では有名な農家だった。
「後継ぎを求める雰囲気のなかで生まれた私は、姉に続く女の子でした。がっかりされたみたいで、祝福ムードはありませんでした」
反骨の精神がこのころに宿ったかどうかはさておき、北斗さんはおてんばな女の子として育っていく。
「自転車に乗っている男の子と言い合いになって、蹴飛ばしたらその子が転んでしまって。みかん箱を持って謝りに行ったことは、よく覚えてますね(笑)」
小学校へは歩いて片道1時間、中学校にいたっては自転車で片道40~50分ほどかけて通学していたという。「結果的に9年間の通学で身体が鍛えられた」ことで、北斗さんの人生は導かれていく。
当時、ソフトボールに励んでいた北斗さんは、都内でも有数の強豪女子高に進学する。だが、「一生続けていきたいものかと問われると、そこまでの熱はなかった」と振り返る。
「生まれてまだ15年くらいの子どもに、『将来に向けて高校を選びなさい』とか『将来何になりたい』と聞くのは無理があると思うんです。自分が親になって、なおさらそれを痛感します。私は、自分の子どもたちにもアルバイトをどんどんしなさいと伝えていた。なりたいものがあっても、いろんな世界を見なさいって」
長男・健之介さんは、そうした母からの教えを胸に、18歳のとき海外へ留学する。映像の世界に魅せられ、現在はカナダのバンクーバーで映像制作の仕事に就いている。
「高校生のときバンクーバーへ行きたいと言っていたけど、私はそれまでの間になんでもやってみろと伝えていた。なんでも見ろ、なんでも食べてみろって」
では、北斗さん自身の高校時代はどうだったか? そう問うと、「何をしたいのかわからなかった」と打ち明ける。そんなモヤモヤを晴れさせる決定的な出会いが訪れる。プロレスである。
「えっちゃんという仲のいい友達がいてプロレスに誘われました。高校時代、目が垂れて髪が短かった私は『(プロレスラーの)前田日明に似てる』といわれていて、試合を見てファンになったのも前田さんでした。えっちゃんと一緒に新日本プロレスの道場へ行くと、選手から『君はいい身体してるね。女子プロレスラーになったら?』と言われたんです」
運命の出会いというものは一気に加速するものだ。道場から吉川町の自宅に戻ると、タイミングよく全日本女子プロレスがテレビ放送していた。映し出される新人の試合のダイジェストを見て、「絶対に私のほうが強いと思った」と北斗さんは笑う。
女子プロレスラーになる─。そう心に決めたが、家族からは激しく反対された。生家は地元でも有数の大農家だ。普通に高校を卒業すれば、おのずとお見合いの話が舞い込み、安泰な生活が約束されていた。だが、北斗さんの決意は揺るがなかった。