'47年、I田は5人も殺害したにもかかわらず責任能力を考慮されたためか、死刑判決ではなく無期懲役が確定。'60年ごろには恩赦で出所して、その後の詳細な消息は不明とされている。
未だ癒えぬ遺族の心
77年前の出来事ではあるが、今なおこの報道に心を痛めている人がいるという。
「十二代目と登志子さんの娘で当時3歳だった片岡照江さんが現在もご存命なのですが、周囲に“事件の真実を伝えたい”と語っているそうです」(前出・歌舞伎愛好家)
伝えたい真実とはなんなのか。3月初旬、照江さんに取材を申し込み、急なお願いにもかかわらず自宅で話を聞くことができた。
「事件が起きた日、私は神田にいた母方の祖母の家にたまたま泊まっていたため難を逃れましたが、家族を失った悲しみは昨日のように覚えています」(以下、照江さん)
照江さんが語るには、I田は空襲で妹以外の家族全員と家を失い途方に暮れるも、I田の父親が、長年にわたり十二代目の座付き作家だったという縁を頼って'45年の9月ごろから片岡宅に住み込むようになった。
「まず、I田の犯行動機である“食べ物の恨み”というのが間違いです。わが家では住み込みの人たちとも区別せず食事をしていましたし、父は知人の遺児であるI田を気にかけていました。本当の動機は単純にお金だったんです」
周囲の役者からはI田の評判は良くなかったようだ。
「生前の父と交流のあった役者さんが言うには、I田が歌舞伎の楽屋に出入りするようになってから、紛失物が増えたそうです。仲間の役者さんたちからは“いつか後ろ足で泥をかけられます”と忠告されていたそうですが、父はI田を庇っていたとも聞いています。結局、そのとおりになってしまったのは口惜しい限りです」