功男からイサオへ。そして憧れの舞台に
「大手町のサンケイホールの窓拭きだとか、いろいろやりましたよ。時給70円、タバコのハイライトも70円。なつかしい、そんな時代だった」
17歳の尾藤はアルバイトをしながら歌の道を探った。芸能事務所の社長を渋谷のジャズ喫茶に訪ねると、階段の踊り場で歌を聞いてもらえることになった。歌ったのは『マック・ザ・ナイフ』や『レイジーリバー』など大人のジャズナンバー。
「プレスリーを歌わなかったのは……、イキがったんだろうね(笑)。だけど、普通の17歳とは違うと思ってもらえたんじゃないかな」
その場で雇われた。決して歌がうまかったわけではないと尾藤は振り返るが、提示された1万5000円の月給は、歌手として「売れる」という期待が芸能事務所にあったからに違いない。
ほどなくテレビの歌謡番組に準レギュラーで出演。事務所が決めた「尾藤イサオ」の芸名には“本場アメリカ仕込みの歌手”というキャッチフレーズが付けられた。
「横浜からアメリカに密航して歌を勉強した……と、いいかげんなプロフィールで紹介されてね。年齢も中途半端に1歳だけごまかされていた」
ナイトクラブなど、17歳では出演できない深夜の仕事もある。アメリカで歌のレッスンを受けた経験もなかったが、“本場仕込み”が通用するほど尾藤が歌う英語の発音は正確だった。
「全部、耳で覚えたんです。レコードがすり減るくらい、もう何百回、何千回と聴いたかわからない」
プレスリーの曲を、誰よりもプレスリーらしく歌う新鋭の歌手は、日本のロックンロールの黎明期でスポットライトを浴びた。そして'63年1月、ロカビリーの聖地となっていた日劇のウエスタンカーニバルに初出演。
「日劇の5階にストリップ劇場がありましてね。鉄太郎のときは、そこでも曲芸をやっていたんですよ。出番の合間に裏の階段から1階に下りて、ウエスタンカーニバルで歌っている山下敬二郎さんや平尾昌晃さん、ミッキー・カーチスさんを羨望のまなざしでこっそり見ていました」
憧れだった舞台の中央に尾藤は立った。4か月後、2度目に出演したウエスタンカーニバルでは「プレスリー賞」に輝く。“和製プレスリー”が尾藤のニックネームになった。そして'64年、『マック・ザ・ナイフ』を邦訳した『匕首マッキー』で念願のレコードデビューを果たす。
「イサオは曲芸でナイフ投げをやってたからマック・ザ・ナイフでいいだろうと、レコード会社も適当な選曲だよね」
5か月後にはアニマルズの曲をカバーした『悲しき願い』が爆発的ヒットとなった。
「実は、ある女性に恋をして、フラれたばかりだったんです。もう一週間もごはんがノドを通らなくて……、パンにしましたけれども(笑)。“誰のせいでもありゃしない、みんな俺らが悪いのか”という歌詞は、そのときの自分の悲しい気持ちそのままだった」
翌'65年発売の『涙のギター』もヒット。売れっ子になったことで、ビートルズの前座の仕事も舞い込む。
さらに、ロックのジャンルを超えてアニメソングの仕事も。それが『あしたのジョー』の主題歌。かつて台東区と荒川区の境に実在した泪橋が出てくる作中世界は、尾藤の生い立ちにもダブっていた。
「僕も少年マガジンの連載を毎週楽しみに読んでいましたから、うれしかったですね。作曲した八木正生先生の事務所へ行って、“サンド~バッグに~”って初めて歌ったら、同席していたレコード会社の人たちがホメている声が聞こえてきて、すっかり気持ちよくなっていたら頭から歌詞が飛んじゃったんです。で、“ルルルー”って歌ったら、八木先生が“そこ、ハミングにしましょう”と」
アニソンの名曲誕生には、そんな裏話もあった。
「いまも歌うときの気分は矢吹丈。身体は丹下段平ですけれども(笑)、80歳近くになっても歌い続けられるヒット曲に恵まれたことは、本当に幸せだなと思いますよ」